4月19日

夜、「言葉と物」の現時点でのドラフトを編集者に送る。これまでの締め切り間際の、自己評価を巻き込んだ心理的負荷はなくもがなのものだろうと、月末の締め切りの前に、いちどその時点での構想をかたちにする機会としてドラフトを見てもらうことにした。といってもその総量は3000字くらいで、種のようなものなので、結局これからボディを作っていくことになる。それでも3000字あるのは大きい。それに、ドラフトはworkflowyで書いているのだが、ようやく、ひとつの動作で階層を増やせるからといって、書き加えるたびにそれを前のものとの前後関係なのか階層関係なのかという意識が走ってしまうこと自体が邪魔なのだと気づいた。とにかく一文ごとに項を区切って下に下に並べていって、段落っぽいものの輪郭が見えたらそこで最初の文その他の文を吊り下げればよく、連想が飛んだら飛んだぶんだけ離れたところに置いておいて、それが本文か見出しかメモかということも、あとから決めればよいのだ。

封筒を買って帰ってほしいと妻から言われて、買って帰るとそれにTWICEのグッズを入れて何人か他のファンに送っていた。余ったグッズをそうして無償でやりとりしたり、売るにしても定額で、ライブで会ったらお菓子を渡しあったりしている。アイドルのグッズ商法というと転売の巣窟になっているようなイメージがあったが、そういう互酬性のネットワークもあるみたいだ。ビニールのスリーブに入れて、短いメッセージを添えて、封筒に入れる。お歳暮みたいだ。

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4月18日

一ヶ月ぶりのクリニック。デエビゴは半錠で飲んでいて、それで十分のようだと言って2.5ミリの錠剤に変えてもらう。他はどうですかと聞かれ、生活リズムはまあ安定しているんですが、それで仕事に集中できるようになったかというとそういうことはなく、机に着くといつも、あっぷあっぷしてしまうというか、頭がざわざわして、集中するまで時間がかかるんですよねと言った。彼は前から薬を出すことにとても慎重だったのだが、いちどストラテラを飲んでみようということになった。裏の薬局で薬を買って、とんかつ屋に入ってお冷やでストラテラを飲んだ。ヒレカツ定食を食べて外で煙草を吸っていると、後頭部がぞわっとしてきて、うなじを何かがすーっと流れているような感じで、息がしやすくなり、視力までよくなった気がした。薬が効くまで2週間かかると言われていたのだが。

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4月17日

ドトールに入る前に煙草を買っておこうと、伊勢佐木町のセブンに入る。煙草を買いに来た人らしくえーっとと言いながらレジに立つと隣のレジの女性が僕のレジの女性にハイライトメンソールを渡した。ああそれですと言ってPayPayのバーコードを見せながら、どうしてハイライトメンソールと知っているのだろうと思った。帰り際に隣のレジの店員をちらっと見たが、マスクをしていて見覚えのある顔には見えなかった。この店では2回くらいしか煙草を買っていないし、それもしばらく前のことだ。毎日買ういちばん近所のセブンから徒歩10分くらいだから、そこの店員が来ている可能性もあるだろう。でもいつも見る顔ぶれではなかった。あるいは、僕にそっくりのひとが毎日買いに来ていて、したがって驚くべきは彼女なのかもしれない。もうひとり僕みたいなひとが買いに来て。そう考えると不思議と気持ちが落ち着いた。誰かの代わりに買ったのだ。ドトールのいつもの大きい机に座ると目の前の老人が『失礼な一言』という新潮新書を難しい顔で読んでいた。

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4月16日

カフェドクリエで、馬車道に面した一列の席で作業をしていると、目の前に停めてあった自転車が3台とも風に吹かれて倒れた。昨夜まいばすけっとの店先で妻の会計が終わるのを待っていると、おばさんが倒れた自転車を起こした勢いでこんどは自分ごと反対に倒れてしまった。それを思い出し、同時に、それを日記に書くつもりだったことを思い出した。大丈夫ですかと言って、両手に持っていたさっきセブンで買ったカフェラテを、軒先に出ているティッシュやトイレットペーパーが積まれた棚に置いて助け起こした。ガラスの向こうで隣の薬局から出てきた薬剤師が自転車を起こしに出てきて戻ったが、また同じように3台とも倒れてしまった。どこかから飛んできた蜜蜂がガラスに停まって、筆記体で何かが書かれたシールに脚を引っかけて腹をどくどくと震わせていた。いま目の前で自転車が倒れなかったら、昨日自転車が倒れたこと、それを日記に書こうと思ったことは、一生思い出さなかったのだと思った。

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4月15日

連載の原稿のためにダナ・ハラウェイ『伴侶種宣言』を読む。いま出ている回は「作品」がテーマで、こないだ書いたその次の回は「理論」で、対になっている。そのまた次とその次はそれぞれ「サイボーグ」と「ゾンビ」の対にしようと考えている。ひとつめの対がアクチュアルな社会を扱ったものだとすると、ふたつめの対はそこから立ち上げるべき人間像みたいなものを扱うことになるのだと思う。これから書くものについて言うと、いつかの日記に書いた、手押し車に乗せられた犬が散歩しているのを見て、その犬を「サイボーグ」だと言うのは酷いことではないかと思ったというエピソードが発想のもとになっている。自然と文化、生体と機械のハイブリッドをそこここに見出して人間中心主義的なカテゴリーを攪乱するANT的な実践では掬いきれない、尊厳のようなものがあるのではないか。しかし、幸か不幸か、「サイボーグ宣言」は——初出が1985年なのもあってか——大時代的な仰々しさがあるのに対して、『伴侶種宣言』は思弁的エッセイとしてちょっと追いつけないくらいの軽やかさがあって、読みながら感動した。これもいつかの日記に感想を書いたが、ヴァージニア・ウルフの『フラッシュ』と並べられるべき作品だ。これでは僕のいつものやり口は通用しない。そう思ったらそれを、こんなふうに、素直に書けばいいのだということももうわかっている。それで楽になるわけではないことも。

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4月14日

日曜だから、と言えばそれまでなのだが、何もしなかった。いや、「言葉と物」の熱心な感想メールをくれた見ず知らずの方への返答メールは書いた。でもそれだけだ。それにしてもこういう仕事のひとは、何もしなかった日の後ろめたさにどう対処しているのだろう。

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4月13日

ジム。ストレッチ、ランニング、デッドリフト、懸垂、ディップス、レッグレイズ、サウナ、シャワー。シェアバイクで帰る。セブンでアイスのカフェラテを買う。昼寝。妻と天ぷら(イカ、鱈、アスパラ、サツマイモ)を作って食べる。ツイッターのおすすめに、イームズのラウンジチェアの中国製の模造品を映画鑑賞用に使っていたら、あるとき不意に肘掛けが外れて立ち上がったらすべてがバラバラになったというエピソードが出てくる。妻の実家にも同じ椅子があった(模造品かどうかは知らない)。義父がオーディオマニアで、スタジオ用だったという単身用の冷蔵庫くらいの大きさの一対のスピーカーと壁いっぱいのレコードやCDのある部屋に連れられて、座らせてもらった。彼は脚を乗せてと言ってオットマンを引き寄せてからジョシュア・レッドマンか何かのCDをかけて、機材やコレクションについて、困ったことのように説明する。問題は、僕が半分横になっているのに対して、彼が立っているということだ。しかしとうぜん、彼がここに座っているとき、脇に立っている人間はいない。彼が実の父だったら、僕はむしろ彼が座っているのを見る側だったろう。

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4月12日

妻と桜木町に出かけて『オッペンハイマー』を見た。3時半から7時前まで。いろいろ進めておきたい仕事もあったが、まあいいことにする。とても長いのでトイレに行きやすいように列の端の席を取ったが、案外大丈夫だった。ジンジャーエールも飲んだのに。平日の昼だからかIMAXの席はまばらで、黄金町の高架がロケ地になっているSTOP映画泥棒の映像を、いつも通りショットを数えながら見る。映画を見るのは久しぶりだった。わかったようなわからないようなという感触だったが、ちょうど現代における「理論」の地位についての原稿を書いていたこともあり、「実験」が苦手な「理論家」としてのオッペンハイマーの側面が強調されるたびに、理論がそのまま爆弾だった時代もあったのだなと思った。大岡川沿い、黄金町の高架の対岸を歩いて桜を見ながら帰った。

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4月11日

コーヒーを入れていると、私もほしい、と妻が言った。僕は吸いたいときに煙草を吸ったり、その季節に着るものを限定したり、いつも通りにコーヒーを入れたり、そういうことがかなり自分の気持ちを安定させるのに大切で、一杯のスプーンで掬った粉で一杯のコーヒーを、いつもと同じ湯の量で作る数分間が乱れることに、すごく過敏になってしまう。ふたりぶん入れるとなると、お湯の注ぎ方も変わるし、いちどサーバーに2杯ぶん入れて分けるのも好きじゃない。朝起きると、彼女が家を出るまでのあいだ、髪留めはどこに行った、どっちのセーターがいいか、何時に配達がくると20個くらい質問があって、彼女の脳の延長として扱われているような気持ちになることがある。適当に返すのにもどれくらいの適当さなのかでいちいち考えてしまい、自分のことができなくなる。でもそれは、僕が自分でやることとふたりでやることのあいだにすごくはっきりとした境界線を引いているのに対して、彼女はそれがほとんどないというだけのことなのだ。もうひとつドリッパーがあればいいのだと気づいて、Amazonですぐ注文した。これでふたりのものを同時に、それぞれ別に入れられるし、カフェオレがいいということになってもすぐ対応できる。カフェになればよいのだ。

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4月10日

デザイナーと打ち合わせ。対面では最初に企画の概要の説明に上がったときから二度目。デザイン案を見せてもらうということで、こないだメルカリで買ったオーラリーのウールシャツを卸して着る。浅いブラウンとグレーの静かなチェック柄で、片袖を脱ぐとそのままぜんぶさらさらと落ちてしまいそうなくらい滑らかな生地。ユニクロで買ったレディースの淡いブルーのダウンベストと合わせる。服で気分にチューニングしていく。どういうデザインが出てくるのか、どういう自分で対峙するのか、ちょっと緊張していたのだと思う。東横線で早めに学芸大学駅に出て、駅前のドトールであんぱんを食べながら日記を書いて本を読んだ。駅で編集者と待ち合わせて、諸々の進行を確認しながらアトリエまで歩く。あとがきはこないだ送ったものでいいようだ。アトリエに着いてお茶を出してもらう。煎っていない、乾いた緑の葉っぱにそのままお湯を注ぐ烏龍茶。テーブルはダークグレーのざらっとしたメラミンの天板で、彼のデザインしたひっそりとした本に囲まれている。三つのパターンのうちひとつが束見本に巻かれて差し出され、それを見たときうなじがぞわっとした。帰り道、編集者といやー、びっくりしましたねと話しながら駅に戻った。

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