2月17日

 明日、というか今日は博論の審査だ。さすがに気が重い。さっき煙草を買いに出たら久しぶりにとても寒かった。明日も寒いみたいだ。オンライン開催なので寒いなか出かけずに済むのが救いだ。

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2月16日

午前4時。眠れないのは昼寝をしたからだ。他人の夢の話ほどどうでもいい話題もないが、大和田俊が実家の墓のリサーチに来るという、ギリギリなくもない感じの夢を見た。今は誰も住んでいない父方の祖父母の家で知らないおばさんにたくさんのご飯を振る舞われている。親子丼の具だけ載った器の下にご飯を敷いた器があって、そこにケチャップで星が描いてあって、これは「輝きの米」なんだと言われた。すでに満腹だったのだが悪いので食べていると、奥から昔の叔父に似た感じの人が出てきて、挨拶をしながら食卓に裸の1万円札を置いて去っていった。迎えにきた父の車に乗って、そんな道はないのだが両側を牛舎に挟まれた狭い道を通って実家に帰る、という一連の出来事のあいだ、大和田俊がうちの墓のリサーチに来ているということが明示されないが文脈としてある感じがしていた。

 10年ほど前に祖母が亡くなって、その1年後に祖父も亡くなった。それぞれと最後に会ったときに、なぜか握手をしたのを覚えている。危篤というわけでもなくこれで最後だと思ってもいなかったので、手を握ったというよりたんに去り際に握手をしただけだった。その家には今は誰も住んでいない。小さい頃から手伝ったり周りで虫や蛙を探していた田んぼはまだ残っていて、実家では叔父が中心になって育てているそこの米を食べている。一人暮らしを始めて定期的に送ってもらっていたのだけど、炊いた米を冷凍するのが何か怖くて最近はパックのご飯を買って済ませることが増えた。

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2月15日

 寝癖もすごかったし、湿気で髪がうねっていた。昼寝をしたらやっとマシになった。

 ツイッターで「セブンティーンアイスの自販機はなぜスイミングスクールにあるのか?」というデイリーポータルZの記事を見かけて、ああ本当にセブンティーンアイスの自販機はスイミングスクールにあったなと思った。3歳から小3でサッカーを始めるまで福山市の神辺にあるスイミングスクールに通っていた。たぶんまだある。車で近づくと笑ったアシカの描かれた看板がだんだん大きくなってくる。練習が終わるとしばらく自由に遊べる時間だった。布団くらい大きいビート板にみんなで乗ったり、短く切ったホースを咥えて水鉄砲にしたりしていた。地元から少し離れていたのもあり友達ができなかったので、早く帰りたいなと思っていたと思う。ガラスで仕切られた観覧席に座っている母は目が合うとにっこり笑っていて、楽しそうにしなきゃと思うのが辛かったのを覚えている。定期的に「検定」が行われて、バタ足を習う赤帽子からクロールを習う青帽子へ、という感じで進級していく。そのたびにアイスを買ってもらった。でも嫌な思い出の方が多い。ホースで叩かれたり噛みつかれたりしたし、階段から落とされて顎を深く切っ縫ったりした。その傷はまだ残っている。ざらざらして硬い、濡れた階段の感じも覚えている。嫌なやつばかりだった。学校では自分もそういうやつだったと思う。子供の頃は嘘や暴力だらけだった。

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2月14日

 午後1時。今起きたばかり。「その日」の日記は翌日の正午までに書くと決めていたのだけど、日記を書かずに寝てしまった。まあしょうがないだろう。前にも似たようなことを書いた気がするけど1日であれ1年であれ単位時間で生活を区切るより、1週間後に小さい締め切りがあるとか、3ヶ月後に大きい締め切りがあるとか、そういうそのつどの大小のゲートみたいなものがあって、その手前の時間の緩急はこっちで完全に自由にできる、みたいなタイム感のほうが性に合っている。そうは言っても単位は数えるために必要だし、それは否応なく自分を数えられる側に組み入れる。ラカンは主体の構造を、数える者が数えられるもののなかに入り込むことと説明したけど、1日や朝昼晩、仕事とプライベートとかそういう相互に排他的な単位のセットに強く寄りかかった、いわゆる日誌的な要素が強いものには自分を数えられる側に還元する——ためにひたすら数えるという——欲求があると言えるかもしれない。まあこれは程度問題であって、同時に、たんなる思いつきの寝坊の言い訳なのだけど。

 

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2月13日

 地震が起きたとき彼女は泣いていた。泣いていると思われたくないだろうなと思ったので、箸を置いてガスの栓を確認して、棒で突っ張ってはいるがぐらぐら揺れている本棚をしばらく抑えていた。比較的大きく、長い揺れのあとでご飯の続きを食べた。

 ふたりでいるということに、そのときふたりでいるということ以上の何か、未来に向けた約束や社会に向けた承認が必要なんて不純なことだし、ひとりになる余地がなくなると思っていた。それでいままでも泣かせてしまったことがあったし、今回も結局はそういうことだ。そういうのはやっぱりガキっぽいんだろうか。「安定」を求めることをどこかで嗤われるかもしれないことをわかっていてもそれを求めざるを得ないのはどういう気持ちなんだろうか。彼女はもうけろっとしている。内心こわごわ冗談を言うと取り合ってくれた。

 冗談というものが世界にあってよかった。でもそこにもふたりでいる以上の、第三者に寄りかかった何かがある。まあそういう不純なものとの付き合いのなかでしか、ふたりにもひとりにもなれないのかもなと思いつつある。

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2月12日

 昼寝から起きたら午前2時。嫌な夢だった。足の裏がチクチクするなと思ったら靴の中にトゲトゲした種がいくつも入り込んでいて、靴底には木の棘が刺さっていて、引き抜くと先っぽだけ血で赤くなっていた。枯れた蔦に覆われた駐車場にいる。なぜかそれを墓だと思っていて、その掃除をしなければならないのだった。

 起きたら足の裏が不快なくらい熱くなっていて、いつのまにか靴下を脱いでいた。それでそんな夢を見たのか夢を見たから熱くなったのかと、靴下を拾って風呂に入って日記を書いた。

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2月11日

 夕方。引越し先に行って注文していた天井の照明を受け取った。配達時間に2時間の幅があるので待っているあいだ、まばらに家具の置かれた部屋の広い床でゆっくり時間をかけてストレッチをしたり、ベランダに出て煙草を吸ったりしていた。

 去年の11月ごろは肩凝りがひどくて、寝起きに背中に激痛が走っていちど整体に行った。整体は初めてで、何かトンカチのようなもので背骨を横から叩かれて痛かった。骨格の歪みは大したものでないと言われた。それからはYouTubeでいろんなストレッチの動画を見て、20分くらいかけてやる一連の動作がなんとなく決まってきた。20分かけてストレッチしろと言われても、サッカーをしていたときにやっていた通りいっぺんの前屈や開脚しかできなかっただろうから、これは財産と言っていいだろう。手の込んだ料理をひとつ覚えたようなものだ。

 肩が凝って攣ることはいままでもあって、寒いのが苦手なので冬によくなる。大学入試の2次試験で大阪まで出てきて、泊まっていた江坂のビジネスホテルから豊中のキャンパスまで行くあいだに初めてなった。急に肩から背中にかけて激痛が走って、体のどこを動かしても、息をするだけでも響いて動けないのでそこらへんの道端に座っていた。何が何だか分からず、ああもう試験は受けられないなと思った。どれくらいそうしていたのかわからないが、そうしているうちに痛みがちょっとずつ和らいで会場まで歩くことができた。あのときどんな気分で座っていたのかとても気になる。絶望していたんだろうか、まあいいやと思っていたんだろうか。ぜんぜん思い出せないけど、これはもう受けられないなと思ったのは覚えている。2011年の2月、ほとんどぴったり10年前のことだ。

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2月10日

 夜中の12時。昼寝から起きた。眠りに入る直前、サイトの名前が自分の名前だとあれかなと思って、「流れの川」か「木の森」がいいんじゃないかと思ったが、起きてみると何がいいのかよくわからない。

 今日はひさびさにマックに行った。いつもダブルチーズハンバーガー、ポテト、コーラを頼む。マックでポテトをひとつずつつまんで食べているときにしか訪れない放心というか、解脱がある。この解脱とともに、あらゆるマックでの記憶が惑星直列みたいに重なりあって、自分がいつのどこにいるのかわからなくなるような感覚が味わえる。『インセプション』の、止まることによってそれが現実であることを教えてくれるコマとは対極にあるグッズがマックのポテトだ。中学生の頃に毎日コーラを飲むことを決めて、それから十数年飲み続けていたのも、コーラを飲むだけで他のコーラの記憶がいちどに呼び出せるんじゃないかと思ったからだった。さすがに毎日はもう飲んでないけど。ともあれマックのコーラはちゃんと美味しい。

 そういえば十三のマックは煙草が吸えたよな、と思い出した。「じゅうそう」と読む。淀川を挟んで梅田の北にある歓楽街だ。映画の研究をしていた学部生の頃、そこにある第七藝術劇場によく行っていた。タル・ベーラ『ニーチェの馬』を見たのも、若松孝二『ゆけゆけ二度目の処女』を見たのも、カサヴェテスのレトロスペクティブを見たのもこの映画館だった。映画館で映画を見たあとにしか訪れない、誰かに会いたいような誰にも会いたくないような感じを引きずって、ダブルチーズハンバーガーのセットで、ポテトとコーラを頼んでいた。修士に上がったくらい、つまり2015年くらいから喫煙席が無くなった気がする。マックで煙草が吸えたなんてウソみたいだなと思いながらポテトをつまんでいた。

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2月9日

 来週はもう博論の公聴会だ。提出して2ヶ月弱だけど、もっともっと時間が経ったみたいだ。提出までの2, 3ヶ月はどうか早くこの地獄が終わってくれという気持ちと、締め切りがきてほしくないという気持ちに引き裂かれて本当に辛かった、ような気がする。そのときどんな気持ちだったかもうなんだかよくわからない。案外落ち着いていたような気もする。とくに逃避の欲求を含んでいるとき、ある種の感情は自分でそれとして捉えられないことがある。怒りならすごくソリッドにわかるのに。

 提出してからはあたう限り脱力して、寝て起きてご飯食べてゲームして散歩してという感じでやっている。この日記もその最大限の脱力の地点から書いている。自分がというより言葉が慰安を求めている気がして。言葉の慰安旅行。しかし来週は公聴会。口頭の議論では人生で最も厳密な言葉が求められる場と言ってもいいだろう。日記はそれが終わってから始めるべきだったのかもしれない。なんとかなるといいけど。

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2月8日

 菊地成孔の舌禍事件について書こうと思ったがめんどくさくなったので一点だけ。とにかく恐ろしいのは、この件で相手の町山智浩が少なくともオープンな場でやったことは、議事堂襲撃のタイミングで1年半前の記事を突然あげつらって菊地はトランプ主義者だと言ったことと、菊地の何千字にもなる応答の一部を切り取って、わざわざトレーサビリティの低いスクリーンショットを貼ったこと、このふたつだけだということだ。この点への反省なく、昔は好きだったけど、あるいは自分は前からそういうやつだと思っていたみたいな、松本人志に対して多くの知的な人々が向けるのと同じような態度を取っていれば分かってる風になることに対しては本当にクソだと思う。

 思い出したのは、大谷能生と一緒にやっていたラジオで、地震速報の直後(だったと思う)に菊地が地震や雷があるとワクワクすると言って、寄せられた抗議に対して翌週の放送で彼が番組冒頭に時間を取って謝罪していたことだ。彼は確か、ワクワクすると言ったことに対してではなく、それをヘラヘラしながら言ったことに対して謝罪すると言っていた。調べたら2005年のことだ。彼の『粋な夜電波』は2011年4月に始まる。とくに最初の1年間の放送は、音楽と喋りでどうヘラヘラするか、していいんだという感じを出すか、とても真摯に取り組んでいたと思う。

 やっぱり昔からそうだったんだと思うだろうか。それとも老いて見極めが効かなくなったんだと思うだろうか。そんなことで得られる納得はわれわれをどこにも連れていかない。何がそんなに怖いのか。ともあれ納得される当人は数週間で忘れ去られるそんな納得の外で生きていくし、それは作品や放送の記憶も同じことだ。

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