3月15日

 「指標(index)」はパースが考えた記号の分類のひとつで、物理的因果関係によって成立する記号を指す。煙は火の指標、足跡は歩行の指標で、細いガラス管の中の灯油の膨張・収縮は気温の指標になる。戦後の芸術学の分野では感光剤の化学的変化によって光を記録する写真の指標性がよく論じられて、じゃあデジタル写真も指標なのか、スクリーンショットは写真なのかとかいろいろ議論がある。ともあれ写真=指標で、それを20世紀の芸術を串刺しにする視座として考えようとした文章がロザリンド・クラウスの『アヴァンギャルドのオリジナリティ』に収録された「指標論 パート1・2」だ。

 しかしクラウスはここで指標に「写真的なもの」を代表させるという操作を議論全体の前提として置くだけで、写真自体はほとんど論じられず、あらかじめ概念化された写真的なものがデュシャンの作品や論文と同時代の70年代の作品にどのように見出されるかということを書いている。

 気になるのは彼女が指標という概念とシフターという概念をくっつけていることだ。シフターはローマン・ヤコブソンが考えた言語学の用語で、発話の状況によって指示対象が変化する言葉を指す。「ここ」とか「昨日」とか「私」とか、確かに誰がいつどこで発するかによって何を指示するかが変化する。しかしシフターは指標だろうか。シフターも指標だと言うことによって物理的因果作用を言葉の網の目の方に吸着してしまうことこそが目指されているように見えるし、むしろ指標のほうがシフターの変種だと考えているんじゃないかとすら思える。指標とシフターの関係が整合的なものなのか、あるいはそこに何らかの「無理」があるとして、それをたんに取り除けるのではなくその意味を探るためには、この論文ではなぜしきりに「キャプション」が取り上げられ、作品の「インスタレーション」としてのあり方が語られるのかということを考える必要があるだろう。

 そもそも狭義のシフターでなくても言葉の意味は状況に応じて変化するし、そこには社会的権力関係が刻まれている(言われていないことを言われたことにする忖度とか)。そうだとすれば一方で「物理的現前」や「実在的現前」という概念を元手にイメージの選択の必然性を担保し、他方で固定的な対象をもたないシフターの「空虚さ」を特権的なものとすることは、言語そのものの社会的・政治的側面を無視する方便になりはしないか。

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カテゴリー: 日記