3月16日

 昨日の続き。「ここ」や「昨日」がシフターであり、かつ、指示対象がその発話の(めちゃめちゃ広い意味での)物理的な条件に規定されているという意味で指標的であるということを認めたとしよう。しかし「私」はどうだろうか。たしかに「私」にとっての「あなた」や「彼・彼女」が誰を指すのかということはそのつど変わる。しかし「私」はずっと「私」と言い続けなければならず、この「私」の固定をスキップすることによってしかシフター=指標説は成り立たないんじゃないか。つまりシフター=指標説を唱えるとき、誰もが「私」を背負わされているという事情に対する批判的視座がブロックされる、というより、すでにそれを解決済みの問題として打ち遣ることになるだろう。

 「私」もシフターだというのは、当人が「私」と言う必要が一切ない地点からでないと言えないことだ。そしてその地点はたんに知的な媒体に「理論的」な書き方で書けば到達できるようなものではない。アルチュセールは「おい、そこのお前!」という警官の叫び——今やこういうことをやるのは広告ばかりだが——が「私のことか?」と後ろ暗さを擦り込みつつひとを主体化させる作用を権力の呼びかけと言ったけど、「私」という語には、ひとを言葉の「主体=主語」のなかに拘束する働きがある。そしてその作用を、物理的因果作用の痕跡だなんて言うことはやっぱり言葉の社会的・政治的側面を甘く見過ぎなんじゃないかと思う。

 そして「私」への拘束から抜け出すということは、小説、詩歌、哲学、批評などあらゆる言語実践の最大の賭け金であり、それは「私」はシフターだとメタで非人称的な地点から言うことによってではなく、「私」をシフトさせる言葉を連ねることによって初めて到達できることだろう。しかしこれを美術の問題に折り返すとどういうことが言えるんだろうか。

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カテゴリー: 日記