3月1日

 1ヶ月かかった引越しの諸々にやっとひと区切りがついて何も運ばなくていい日だった。そういえば展評も書いた4年くらい前の「Surfin’」展は、永田さんが引越しのあと、1ヶ月契約が残っているもともと住んでいた部屋を会場とした展覧会だった。ウェブで事前登録をすると初めて正確な住所を知らされて、そこに向かうとごく普通のアパートで、恐る恐るインターホンを押すと無言のままオートロックが解除され、5階まで上がって部屋に入ると誰もおらず作品だけが並んだ単身者用のワンルームが広がっている。エントランスで部屋番号を押すと自動でドアが開く仕組みをわざわざ作ったと聞いた気がする。展示というパブリックな行為をプライベートな空間に埋め込みつつ、とはいえホームパーティ的な気安さに居直るのとは反対にむしろその埋め込みにかかる摩擦を最大限生かすような展示だった。それに誰だって、知らないアパート、特に廊下とかの共用部にいるときに謎のよそよそしさを感じて、何かわからないが何か誰かに咎められるんじゃないかという気がしてくるだろう。プライバシーが密集すると公共性は殺伐としたものになる。じゃあバッファとしていわゆる中間共同体があればいいんじゃないかという話になるわけだけど、それはそもそもインフラが物理的にも情報的にもメガプラットフォーム的なものに吸着されているという問題に介入するというよりその問題を払い除けているだけになるだろう。公共性はマンション管理組合の張り紙みたいに誰の目にも明らかに殺伐としているくらいの方がいいのかもしれない。そういえば先日、新居はオートロックなのに置き配指定のままにしちゃってたなと思いながら帰宅すると、すでに部屋のドアのところに置かれていたんだけどあれは何だったんだろう。

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2月28日

 自粛と補償はセットだろというハッシュタグがあった——もう聞かなくなった——が、空が広いのと山が見えるのはセットだろという感覚がある。昨晩も一昨晩も煙草を吸いに出たベランダからきれいな月がよく見えた。前の家より空が広くて嬉しいが山が見えないのでどこかスカスカした感じ、身の置きどころが定まらない感じがある。横浜、とくに関内より海側はビルの向こうには空しかなくて近くと遠くのバッファがない。最近はオープンワールドのビデオゲームでさえマップ外の遠景を空気遠近法まで使って描き込んだりしているのに。現実感というものを山が見えるということから調達しているところがあるらしい。

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