4月4日

 髪が伸びてきて、次は短く切ろうかなと考えている。今は前髪のあるボブとウルフのあいのこみたいな髪型にしている。切ったばかりはまだいいのだけど、髪の毛が多いのですぐにぼわっと広がってきてしまう。服は好きだしいちど気に入ったら何年でも着るのだけど、髪型に関してはこれでいいなと思ったことがない。ちょっとでもまとまればとドライヤーをする前につけるヘアオイルを買って、それでいろいろ調べていると顔の肌まで気になってきて1500円くらいの洗顔料まで買った。なんだかわからないがわざわざ伊勢丹のウェブショップで下着と靴下まで買った。服は楽しみで買うけどそれより体に近いものには強迫的なものを感じてしまう。

 それにしてもルッキズムというのは本当に厄介で、他人を見た目で判断してはならないというのは守られるべき礼儀としてそうなのだけど、たとえば肥満やぽっちゃりが「プラスサイズ」と呼ばれ、それを「美しい」と言うことがモラルみたいになると、いつの間にか判断に帰ってきている。それはアンチ・ルッキズムではなく包摂的ないし拡張的なルッキズムなのではないか。とくにファッション、エンタメといった資本や広告と強く結びついた領域で起こっているのはそういうことだと思う。似たようなことはジェンダー、セクシュアリティに関する議論を見ても感じることがある。それはリベラルではなく拡張的保守なのではないかと。美しさや道徳的な善さ、社会的な幸せのかたちそのものへの批判的アプローチの余地が蒸発してしまう。そしてそういうことを考え、言うこと自体が、彼ら彼女らにとって「差し迫った」課題への足並みを乱すものとして敬遠される。そんな悠長なことを言えるということ自体がマジョリティの特権なのだとさえ言われかねない(言われたらどうすればいいんだろう……)。

 露わになった議論されるべき問題から個別の「失言」の指弾へと問題が拡散していき、属人的なレベルで「解決」され忘却される、政治とマスコミの関係を反映したような言論状況も、こうした拡張のプロセスで出てきたものと言えるのだろう。

 こうした、ほとんど不可逆的に進んでいるように見えるプロセスに対して物書きが取りうるアプローチはまずふたつ思い浮かぶ。ひとつには徹底して欺瞞を欺瞞だと言い続け、ひねくれ者であることを辞さないこと。別にあからさまに好戦的である必要はないが、イージーな野合には距離を取り続けること。ふたつめは、失言の忌避、拡張的な傾向への迎合(あるいは露悪への居直り)という大掴みな言葉のあり方に対して、極めて具体的なレベルにある書けないこと、言えないこととの距離で言葉を使うことだ。

 結局それぞれの書き手がどちらもやるべきなのだろうけど、この日記は第二のアプローチを試みるものだと思う。日記を始めて新鮮だったのは、こんなにも書けないことがたくさんあるのかということだ。論文みたいに主題に言葉を預けることもできないし、どうしてか——たぶんたんに要求される文章の長さから——ツイッターみたいにネタや自己演出のためだけに私生活から言葉を切り出すということができない。日記はもっとも確かに書けないことの手触りを感じながら書いている。日記は下着みたいなもので、ツイッターや論文はカジュアルだったりかっちりしていたりする服だ。なんでもないことだが書いてしまうと社会のなかでの自分や周りの人のあり方を決定的に変えてしまうこと、そういう脆さとの距離で書いている。なんでわざわざそんなことを? と聞かれてもはっきりとはわからないけど、今自分にはそういう言葉が必要だ、それもバイタルなものとして、と思う。そしてそれは確実に何かを変えている。それが読み手に及ぶかどうかは運次第だけど。

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カテゴリー: 日記