4月5日

 トリスタン・ガルシアの「概念の羅針盤」(伊藤潤一郎訳、『現代思想』2021年1月号)が面白かった。現代の哲学を「実在論」の全面化、つまり実在論ではないもののなさによって特徴づけたうえで、そのなかでの対照的な「認識論的方向」と「存在論的方向」の内的な緊張を図式化することを試みた論文。たぶん博論の改稿で使うことになるだろう。全体的なマッピングのそう言われてみれば確かにという感じも面白いのだけど、散りばめられたフックから自分なりの議論を展開したくなるのも面白いし、この論文のキモはそっちだろう。わざとネジを締め切っていないのだろうというところも含めて喚起的ないい論文だと思う。

 一点だけ。ガルシアは実在論の全面化の要因を、20世紀の哲学が言語、意識、神話といった「主体の生産物」にさんざん付き合ってきたこと——これを彼は「哲学的ナルシシズム」と呼ぶ——への「疲れ」に見ている。くしくも、いちど同じ『現代思想』に載った「思弁的実在論における読むことのアレルギー」という短い文章で、現代の哲学にはポスト構造主義的なテクスト読解と哲学的思考がへばりついたようなスタイルへの「疲れ」があるのではないかと書いた。メイヤスーやハーマン、そしてこのガルシアの論文もそうであるように、テクストの読みというよりも複数のテクストから相対的なポジションを抽出したうえでそれらを配置することに重きが置かれている。

 ガルシアは論述対象としての言語への疲れを見ているが、論述(読み書き)に必然的にともなうものとしての言語への疲れもあるのではないか。ポスト構造主義にすでにあった「疲れ」に加えて、ポスト・ポスト構造主義になって現れた別種の「疲れ」もあるのではないか。

 ガルシアの分類に従えばこうしたアイデアは、言語使用によって実在に実在的に触れることを考えるという意味で、認識論的実在論のいちバリエーションである「副詞的実在論」だということになるだろう。ここに彼はプラグマティズムや後期ウィトゲンシュタインを数え上げているが、ドゥルーズの自由間接話法的スタイル、デリダの脱構築、フーコーの考古学といったポスト構造主義的な実践をその延長線上に位置づけるとどうなるのか。ガルシアは、言語は主体の関心のもとにあるが現代哲学において実在とされるものは主体に無関心なものだという前提を敷いているが、これによって、言語が主体の生産物なのではなく主体が言語の生産物であるという構造主義的な前提を採ったうえで言語への受動性を梃子にして主体の変容を考えるポスト構造主義的な可能性がブラインドされているように思われる。

 博論ではドゥルーズの『哲学とは何か』で概念創造が論じられるときにそこで『千のプラトー』での言語行為論がどのように変奏されているかということ、つまり概念創造=哲学とはどういう言語実践なのかということを書いたけど、「概念の羅針盤」はこのあたりの議論をより広い視野のなかに位置づける手がかりになりそうだ。

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カテゴリー: 日記

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