4月8日

 言葉と冗長性について。昔から文章の冗長性を下げ過ぎるきらいがある。冗長な文章と言うとたいていそれは不要な繰り返しの多いダメな文章という意味だけど、いい文章は冗長性を上手にコントロールした文章のことだと思う。『アーギュメンツ#2』に佐々木友輔論を書いたとき、平倉さんが「高速でカッコいい」文章だと言ってくれたのをよく覚えている。確かに書いてからしばらく経った後に自分の文章を読み返すと速くてびっくりすることがある。冗長性が下がるのはまず、メタデータ的なもの、つまりなぜ、私が、今、ここで、この文章を書くのかということを書かないことが多いからだ。最初の段落でいきなり「今までこう言われてきたが、実はこうなんだ」みたいなことを言ったり、作品や展示の細かい描写から入ったりと、思い出したように書き始めることが多い。内容に対してメタな宣言文みたいなものを避けたくなってしまう。でもそういうのが逆に読み手に対するフックになるのも短い文章だからで、本単位の文章となると小説でもないかぎりそうはいかない。ひとつのセクションの初めにこれからなされる議論の概要を説明して、終わりに要約を書く、それを項、節、章、といった形式的な単位それぞれで繰り返すというやり方が最も確かに冗長性を確保することができる。それはひとつにはこうした入れ子の形式自体が多くの本で用いられてきた冗長なものだからだ。

 言葉にとって冗長性は、まず形式的で統計的な頻度を示すものとしてある。たとえば英語の形態素(言語記号の最小単位)のレベルであれば’e’という文字のあとに’a’という文字が続くのはどれくらいの頻度なのか、’eart’までくればもう十中八九’earth’だろう、というように、冗長性が高いということは与えられた要素から抜けている要素を予測できる可能性が高まるということだ。ある程度埋めればいちいちクイズを解かなくてもクロスワードパズルを完成させることができるように。形態素、語彙、センテンスといったそれぞれのレベルで、ある要素が別の要素と隣り合う頻度の分布の総体がその言語の冗長性であり、ある意味でそれこそが言語それ自体だ。自然言語の機械学習も基本的にこういう言語の捉え方によって成り立っているものだと思う。言葉が何を表しているかではなく、純粋に表面的な様々なレベルの膨大な「ああ言えばこう言う」を取り集め整理しているわけだ。

 ドゥルーズ゠ガタリも『千のプラトー』のなかで言語とは冗長性なんだと言っているのだけど、形式的で客観的な頻度とは別に、言葉の並びそのものには現れない主観的な冗長性があるのだと言っている。このアイデアはひとことで言えば、言葉の社会性を考えるために持ち込まれたものだと思う。首相の記者会見とか「忖度」とはどういう言語的な現象なのかとか、そういうことを考えればわかるように、偉い人ほど少ない語彙で物事を動かせる。偉いということは言わないで言うことができるということを意味するわけだ。社会的なポジションが言葉の冗長性を上げたり下げたりするということはさすがに機械学習ではどうにも分析できないだろう。

 ここから文学の問題に翻って考えると、文学的な発明とはたんに形式的な頻度の意味での冗長性を実験の対象とするものではないと言えるだろう。言葉のありようを変えるためには言葉遊び的な側面も必要だが、それだけではダメで、主観的で社会的な冗長性のありかたを壊さなければならないということだ。ドゥルーズ゠ガタリが言う「マイナー文学」の問題はこのふたつが交差する地点にある。マジョリティは冗長性の高い言葉を使い、たんに結果的に頻度が高まっただけのそうした言葉のあり方を、あたかももとからあった定数ないしスタンダードとして「公用語」とし我が物とする。それを壊すためには、それがたんなる冗長性の集積でしかないことを暴き、その勾配が中心化し固定化しないべつの言語のシステムを編み上げる必要がある。

 そして「本」という形式あるいは「著者」の権威、あるいは学問としての「哲学」という言説体系を変形するためには、ここでもまたたんに字面レベルでの新しさに拘ることは別の冗長性を温存することになるだろう。大事なのは定数と取り違えられた冗長性を動かすことであり、そのなかで新しい本のあり方、思考の運動性を、書くことを通して発明することだ。そしてそれはある意味では冗長性の上げ方の発明でもあるだろう。

 なんだか最近、あったことではなく考えたことを書く日が増えた気がする。日記でそういうことを書くやり方がわかってきたというのもあるし、たんになんにもない日が多いということでもある。2ヶ月先にふたつ締め切りがあるだけで、それ以外予定らしい予定がぜんぜんない。

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カテゴリー: 日記