4月16日

 昨日の続き。書いてみてなるほど自分はこういう風に考えていたのかと気づけて面白かった。誰だってそうだと思うけど自分の書き方が明晰にわかっていてそれをぱかっと当てはめれば書けるなんていうことはなくて、なんだかわからないままに書いていることに文章や言葉に対するどういう態度が反映されているのかということも後から振り返ってやっと少しわかる。

 それで、昨日書いたようなこと、とくに段落の捉え方にいたる手前でどういう試行錯誤をしていたかということを今日は書く。文章を書いていて手が止まるのはどういうときなのかということを考えてみると、たいていロジックや主張どうこうというより、今書いているセンテンスや段落をどう終わらせれば次に飛べるのかわからなくなったときだ。読み返してみる。ここまでは筋が通っている。どこに到達するべきか、そのための大まかなステップも決まってはいる。しかしなぜか手が動かない。急かすようにカーソルが点滅し続けている。

 こんなときどうすればいいのか、という苦悩のなかで生み出されたのが勝手に「パラグラフ・パッド」と呼んでいる推敲法だ。まずA5サイズのリーガルパッドを用意して——大事なのはそれがなるべくどうでもいい紙であることなので何でもいい——キーボードの傍に置く。手が止まったら、次に踏むべきステップとそこに含まれる要素を箇条書きで書く。ばらばらと書いているとそこに段落の切れ目が見えてくる。段落の切れ目が見えると文の組み立ても見えてくる。それで次の一文を書いてみる。また手が止まったら紙を破って捨てて次のページに箇条書きをする。このやり方の第一の利点は手を動かし続けられることだ。いかに「知的」な作業でも腕を組んで頭を捻っているだけで突破できるようなことなんてないし、かといってエディタに書いては消しを繰り返すと文が荒れてくる(単純に誤記も増えると思う)。PC上で別のメモ用のアプリに飛ぶと気が散ってしまう。

 面白いのは、パッド1を書いて少し進めてまた手が止まったときに書くパッド2の内容は、パッド1とぜんぜん違うこともままあるということだ。とはいえさすがに全体的な主張や流れがいきなり変わるわけではないので、木を見て森を見ずというか、見る木が変わることで木と森を繋ぐ中間構造ががらがらと変わっていく。物として残らないから気づかなかっただけで、そういうことはパラグラフ・パッドを使う前から起こっていたのだろう。ある一文を書くこと、あるいはある言葉尻の選択が、それより大きいスケールに変化を迫ることを許容するような、もっと言えばその変化をドライブとするような書き方。パラグラフ・パッドはそれを助けてくれると同時に、それがあることに気づかせてくれた。

 これが昨日の日記のエピソード・ゼロだ。

 

 

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カテゴリー: 日記