5月2日

 東浩紀がいつかのゲンロンカフェの動画で、メタな発言というのは決してそれ自体は高度なものでなくて人は易きに流れるとメタなことを言うんだと言っていた(いわゆる「経験的−超越論的二重体」としての人間の話だろう)。作文の題材に困った小学生が書けないことについて書くように。逆に言えばベタな発言——これを便宜的に原義を拡張して「プレーンテクスト」と呼び、「メタテクスト」と対比的に用いることにしよう——に留まるためには努力を要するということだ。たとえば論文の冒頭で研究対象の範囲を画定する文章は、それ自体はメタテクストであるが、それ以上メタにメタを重ねる自己言及を打ち止めにする機能がある(千葉雅也なら「イロニーからユーモアへの折り返し」と言うだろう)。ベタを守るためのメタがあるし、メタにそれ以上の意味をもたせるべきではないと思う。プレーンテクストなき世界は陰謀論の全面化したパラノイアックな世界だ。しかし言葉の地階とは何なのだろうか。それはたんにそれぞれの示す事実に立脚した言葉の集まるフロアなのだろうか。そうすると物理的現実→現実に即した言葉(プレーンテクスト)→言葉の現実についての言葉(メタテクスト)というフロアマップを描くことになる。言語を論理的に純化する試みは、自身をメタテクストとし、操作される言語=論理を完全なプレーンテクストとしようとしている(フレーゲ、ラッセル以降の意味論的言語哲学の系譜)。その後の哲学史ではこの意味論的な完全性の希求は、ウィトゲンシュタインにおける前期後期の分割に代表されるように、不可能だと明らかになったということになっている。問題は言葉が現実を指示するということの基礎づけから移行し言葉の指示対象は括弧に入れられ、ソシュール的に「ラング」の示差的な構造を炙り出したり、チョムスキー的に文法構造を分類したり、ともかくメタテクストはプレーンテクストの純粋に形態的な法則を規定するものになっていく。プレーンテクストはもはや、テクストブッキッシュな例文としてしか存在しないかのようだ。言語(哲)学者と言語の関係はマナー講師と「了解しました」の関係みたいなものになり、言語の正しさには社会的−政治的な正しさが滑り込んでいる(『千のプラトー』の言語学批判)。

 別の話。日記に書くことがまったく思いつかず、風呂に入りながら今日はもう寝て明日書こうと思った。どうしてか日記掲示板の更新もまばらだ。そういう日なのかもしれない。布団に入るとどこかで車の警報か何かがけたたましく鳴り始め、諦めて煙草を吸ったりしてやり過ごしていた。鋭いサイレンに何か詰問するような男の声が混じっている。やっと静かになって横になったがまだ何も思いつかないので、もう日記についての日記でいいやと思いながら寝た。日記についての日記を書くしかないような非日記的な日があるのは何かの救いかもしれない。

投稿日:
カテゴリー: 日記