5月22日

 起きて昨日の日記を書いて、次の原稿に取り掛かるのがどうにも億劫で、だらだらとそわそわの重ね合わせみたいな感じで一日が過ぎていった。せめて日記を書いてしまってから寝て明日やろう。以下はその原稿のためのメモで、これまで日記に書いたことで原稿に使えそうな日をピックアップしている。絵画論を書こうと思っている。

3月26日
 千葉正也個展について。受付で書かされる名前は感染経路のトレースのためではなく会場の撮影・配信の許諾書だった。その時点で嫌な予感がする。絵と、絵になるべきものしかない。警備員とその脇にある彼の肖像画、画面から突き出る棒に取り付けられた半透明のプレートと、そういうものが描かれた絵。タイトルのない個展。しかしYou can sit on this chairとか、そういう言葉はこれもしっかり絵として描かれて用意されている。イメージの多重化と、youやthisへの拘束によるこれでもかというほどの包摂。絵が上手いことへの照れ隠しなんじゃないかと思った。順路の最後の絵だけアクリル板で覆われていて、その直前に鏡越しにしか見えない作品があったのもあり、そこに自分の影が映り込むのが気になった。署名させられ撮影され配信され最後は絵に重なる自分の反映を見て、絵を見るってそんな忙しいことなのかと思った。

3月15日3月16日
 ロザリンド・クラウスの「指標論」について。クラウスはシフターを指標のひとつとしているが、物理的因果関係の痕跡である指標と言語的−社会的なネットワークに依存するシフターはどこまで同一視可能なのか。これは突っ込んでも旨みがないので、なぜ絵画を論じるために指標=写真的なものとシフター=言語的なものを使うのかというフレームで議論を立てる。シフターに基づく「キャプション」と指標に基づく「インスタレーション」という語の頻出に着目する。このふたつは絵画がそこにあることを自己正当化する手管であり、千葉の個展に見られるものだ。

5月11日
 本山ゆかり個展について。大枠はこの日書いた通り。タイトル(「コインはふたつあるから鳴る」)があって、コロナ対策の記名があった。愛知県で非常事態宣言が出たため見に行った翌日、会期途中で終了した。市の文化財団が運営しているギャラリーで、受付には本山が表紙を飾る当地の広報誌がふたつ並んでいた。その場と地続きであることによる温かさと、文字通り吹けば飛ぶような脆さが一緒になっていて、それは作品のあり方と響き合っているような気がした。

 書けそうな気がしてきた。日記を並べ替えるだけである程度原稿ができてしまうというのは発明なんじゃないか。

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カテゴリー: 日記