6月29日

 模範的な一日。起きて、朝ご飯を食べて、コーヒーを淹れて、作業をした。昼ご飯を作って食べて、散歩をして晩ご飯の材料を買って帰って、ちょっとだけ横になってから作業をして、晩ご飯を作って食べた。作業をして風呂に入ってストレッチをした。またちょっとだけ作業を進めて日記を書いている。あとは寝るだけ。毎日これくらいそつなくこなせるといい。とはいえ進捗としては1000字ほど原稿が進んだだけだ。焦ってもしかたがない。進むときは進むことはわかっている。ストレッチを毎日するようになって、爪を切る頻度が上がった。

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6月28日

 有隣堂をぐるぐる歩いてクレメンス・J・ゼッツの『インディゴ』を買ってコメダに入った。訳者あとがきを読むと著者が29歳のときの本で、今の僕と同い年だ。冒頭から架空の本の引用、手紙や診断書の挿入が続いて、ちょうどそういう変な本が読みたかったのでよかったのだけど、本筋(?)の冒頭に出てくる長い会話がかったるいなと思った。途切れがちでちぐはぐな応答とちょっとした仕草がぶつぶつと描かれる。リアルな会話ってこういうものだよねという感じで、アンニュイな雰囲気だけの現代演劇を見ているようで逆に押し付けがましく感じてしまう。これは良し悪しというより気分や性格の問題で、たぶん僕は6年くらい哲学の研究をやってきていつのまにか地の文人間に改造されたんだと思う。それまでは小説ばっかり読んでいたけど、そのときどういう気分で会話を読んでいたのかもう思い出せない。

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6月27日

 特に予定がないことは休日も平日も変わらないのだけど、日曜日はなんだかだらけてしまう。出かけても人が多くて疲れるし。アマゾンで頼んだものが川崎から来るはずなのに千葉に行っていた。こないだ原稿の依頼をくれた編集者がコロナに罹ったのをツイッターで知った。僕が原稿を出す頃には治っているだろうしわざわざ連絡はしないことにした。

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6月26日

 哲学の入門書には、すでにある程度知っている人はこの章を飛ばしても構わないとか、こういう順番で読むこともできるとか、そういうガイドが最初に書いてあることがある。これをありがたいと思ったことがいちどもない。内容だけ紹介してくれれば最初から読みつつこっちで判断するのだ。ちょっと昔だと逆に、読者諸賢も承知のことと思うがとか、そういう書き方が多かったと思う。どっちが偉そうかというと、読者と文章を勝手にレベル分けするほうが偉そうな態度に決まっている。まあ入門書だからと言われればそうかもしれないのだけど、「まあ入門書だから」くらいのことでしかないんだったら書き手の心を守るためにもやめたほうがいいと思う。概して、文章を楽して書こうとすると読者とのあいだに〈私−あなた〉のフレームを持ち込みたくなってしまう。それを全くなしで書けるかということは措くとしても、それに寄りかかると書き手を何か凡庸なものにスタックさせるし、知らないうちにそれは本当に大事な〈私−問題〉から目を逸らす方便になっているかもしれない。これについてはいくら気をつけても気をつけすぎることはない。

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6月25日

 今まで家の机にモニターを置いて、ラップトップとつないで2画面で作業をしていたのだけど、これだとなんだか狭苦しい感じがするなと思っていろいろ変えることにした。一昨日注文したひとまわり大きいモニターとキーボードとマウスがいっきに届いた。MacBookは閉じたまま置いてクラムシェルモードでデスクトップPC みたいな使い方にすることにする。マウスも思えば久しぶりに使うし、カッコいいかなと思ってUS規格のキーボードにしたら英数/かな変換のボタンがないからcontrol とスペースで切り替えなきゃいけない。画面も大きくて目移りするし、設置して設定してちょっと動かしてみているだけでそわそわと一日が終わってしまった。でもこうしていま文章を書いてみると、エディタの余白(とくに縦方向の)が広く取れるし、ほかのソフトを同じ画面で開いていてもあんまり圧迫感がない。それに今までは手が止まったときにトラックパッドをいじって手慰みにスクロールしたりピンチイン/アウトしたりしていたけど、キーボードとマウスに距離があるので、タイピングが止まっても手はキーボードの上から離れない。これがいちばんいい変化かもしれない。数秒の集中力の途切れによる手慰みが、滑らかにブラウザを開いたりする動作につながってしまうのは怖いことだ。手慰みを手慰みに留める環境が大事なのかもしれない。

 おまけ。「ディスプレイ」か「モニター」かという話。ディスプレイだと映っているものの方に能動性があって、モニターだと見ている人に能動性がある感じがする。パソコンは仕事道具なんだと思うためにモニターと呼ぶことにした。

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6月24日

 このところ寝付きが悪いわりに寝始めたらいつまでも寝てしまうので困っている。マインドフルネス的な瞑想の手法でボディスキャンというものがあって、体の部位をゆっくりと順番に意識していく。文字通り体で心をいっぱいにすることでもぞもぞと身を捩る思いなしを鎮めるのだけど、インストラクションの音声とかがないとすぐ気は散ってしまうし、布団のなかで動かない右手の指に順番に意識を向けているとアホらしくなってくる。もっと直接的なやり方はもうすでに寝ていると思い込むことだ。頭のなかでひたすらもう俺は寝ているんだと繰り返しながら緩む表情筋に、上下する胸に、ほらもうこれは寝てるでしょと思い込ませていく。聞こえる音をぜんぶ夢の背景にして。これですっと入れればいいが集中力が要るので長続きしない。昨夜思いついたのはボディスキャンの応用で、ゆっくりストレッチしているところをイメージするやり方だ。首、肩、腋、背中、股関節、腿。適切に力を抜きながら負荷を加える。もう少しでつま先に手が届きそうだ。痛気持ちよく筋が伸びている。息を吐く。ストレッチのときの力を抜きつつ入れる感覚は入眠に似ている。

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6月23日

 仕事から帰ってくる彼女に何が食べたいか聞くとあっさりしたものと言ったので素麺を作ることにした。トマトを切って冷倉庫に入れておいて、茄子の煮浸しを作っているところでこれだと素麺と同じような味になるなと思ったけど気にしないことにした。ベッドに寝転がると窓から月が見えた。もう何年も眼鏡をしていない自分の顔を至近距離以外で見ていないことに気がついた。コンタクトを買ってみようか、自分の顔を確認するためにコンタクトを買うのは馬鹿げているだろうかと考えていた。

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6月22日

 今日は髭剃りの話。髭はいつも風呂で剃る。そのほうが剃ったあとシャワーで流せて気持ち悪くないから。人に会ったりする日だけ出かける前にあらためて洗面所で剃る。今日T字剃刀の替え刃を買った。8つで4000円もしてバカみたいだ。電動シェーバーはいちど買ってしまえばずっと使える。でもあの、どのブランドのものも一様にカブトムシみたいに黒くてずんぐりしたフォルムが許し難い。あの形にはこの世界で男が置かれている何かの立場が表れていると感じる。あれを使うことで何かを引き受けることになってしまう感じがして怖い。しかしそれは何なのか。それは、毎朝あの、無数の刃をモーターで高速回転させるカブトムシみたいな黒い太い棒を自分の顔に押し付けるということだ!ああ嫌だ!

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6月21日

 ベランダで煙草を吸う。右手の空に月があって、左手に道路を挟んで同じ高さの部屋のベランダからテレビが点いているのが見えた。55インチくらいありそうだけど何が映っているのか見えない。だいたい2秒おきにショットが切り替わっていることだけがわかる。なんだかそうしてたくさんカメラがあって、演出されて編集された映像がまだあるんだということが不思議に思えた。ベッドに入ったのは4時くらいで、ほうぼうからカラスの鳴き声が聞こえる。目をつむるといろんなリズムがいろんな方向に動いている。鍋の底を叩くような金属音も聞こえて、まさか鍋の底を叩いているわけじゃないよなと思いながら寝た。

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6月20日

 絵画論のゲラ直しが終わった。6000字ほどで、来月頭に出る『美術手帖』に載る予定。これまで絵画についてはリー・キットと五月女哲平についてそれぞれ文章を書いていて、どちらも絵画論としてはなんか変だなと思っていて——作品が変だからなのだが——その変さが何なのか、どういう意味があるのかについてある程度考えが進んでよかった。去年書いた「ポシブル、パサブル」もそうだったけどひとつの文章になかば無理やりいろいろ突っ込む実験も兼ねていて、それは哲学研究的な固有名の重さや字数あたりのトピックの狭さから逃れる練習でもある。でもやっぱりそれと引き換えに——そのおかげで?——これはもうちょっと踏み込みたいというところも出てきて、とくに今回取り上げたクラウスの指標論については哲学の文脈であらためて考えたい。そういえば『エスの系譜』っていう本があったけど最初らへんしか読んでいないなと思って今アマゾンのページを見たら一人称が「評者」のレビュアーがいて笑ってしまった。「評者にはその点が物足りなく感じられ、やや退屈な印象を受けました」。書かれた側はたまったもんじゃないが、こういうのを見ると元気が出る。アマゾンのレビュー記入欄をクリックして一人称を「評者」にして文章を書くって自分じゃ絶対思いつかないことだ。

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