6月4日

 誕生日。29歳になった。まだまだ若いと言えてしまうだけに踏ん張りの効かない歳なのかもしれない。何歳だからどうだというのは占いと一緒でいいところだけつまめばいいのだろう。ちなみに大和田俊の誕生日診断によると、1992年6月4日は「92と64で考えると同系列で整合性を感じるが、互換性がない」ということらしい。この取り付く島のなさのほうが祝うにあたいする感じもする。

 馬喰町のαMまで黑田奈月「写真が始まる」を見に行く。写真を扱ったふたつの映像作品がメインで、どちらも素晴らしい作品だった。とくに訪問介護者がかつての訪問先の部屋の写真を見て語る《部屋の写真》は、母が訪問看護をしていて、小さい頃から訪問先のかわいいおばあちゃんの話を聞いたり、患者さんが亡くなって悲しそうにしているのを見ていたのもあり強く心動かされた。彼らが写真を語る言葉から、その部屋に住んでいた人の性格や習慣と同時に、彼らの目が何を見ているのかが浮かび上がり、ひょっとすると1分間を越えているだろう、作品に挟まれるただ無音で写真だけを見る時間がとても豊かなものに感じられる。その豊かさをあくまで——属人的なものでも社会的なものでもなく——写真の豊かさとして扱う手つきが、かえって写真を取り巻く人々のその人らしさが際立つようで、とても不思議だった。

 展示を思い返しながら歩いていて、仮に「絵画論:千葉正也/ロザリンド・クラウス/本山ゆかり」としていた今書いている文章のタイトルを「ジャンルは何のために?:絵画の場合」にしようと思いついた。黑田さんの作品にある写真への態度と、こないだ愛知で見た本山さんの展示の絵に対する態度がどこか重なるようだったからだ。それは写真や絵画をそれぞれひとつのジャンルたらしめているものを、あくまでその外部に触れる回路として使う態度だと思う。外部を取り入れることが目的化することは教条的な自閉と大差ない。これはポストメディウムとメディウムスペシフィックは大差ないということでもあるだろう。

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カテゴリー: 日記