『現代思想』について:白江幸司氏への応答

 以下は先日から僕の5月29日の日記に批判を寄せている白江さんへの応答です。彼の意見が「整理」されたものがツイートされたのでそれに応えるかたちで書いています。

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 何よりまず当該の日記は明確に編集方針について述べたものです。それはひとことで言えば研究者ないしもともと現代思想の動向をフォローしている人にしか向けられていない縮小再生産的な方針であり、それを「回覧板」だと言っています。しかし白江さんは、「「ポストモダンって言われたので」みたいな」という寄稿者の態度について述べた点が最も引っかかったようなのでそこから説明します。


 これはたんに、白江さん含め寄稿者の誰もが俗流化した意味での「いわゆるポストモダン(ポモ)」を積極的に擁護するわけではないという、防衛的な身振りから始めていることを指しています。そしてこれについては、学的に完全に正当なものであると思っています。僕でもどこかでそういう予防線を張るでしょう。僕が言っているのは、そうした枠組みのなかでどういう立場が作られてどういう新しい知見がもたらされるかなんて、いったい誰が興味あるんだ?ということです。学者と現代思想フォロワーだけでないでしょうか。だからこそ僕は個別の記事の良し悪しとは別に、特集全体の枠組みとその意義付け(いっそのことマーケティングと言ってしまってもいいですが)は、こうすればそういう人は読むでしょという非常に内向きなものであると思っています。


 繰り返しますが寄稿者が「いわゆるポストモダンとは別に誰々にはこういうポテンシャルがあって」という書き方をするのはいいし、学者的な態度だという以上の感想をもちません。しかしやはりそれは外から見れば「ポストモダン」という厄介なお題目をめぐって何かの義務感に駆られた人が集まり、固有名を持ち寄って小さい差異のゲームをしているようにしか見えないということもまた事実ではないでしょうか。問題はそのゲームを大きく見せる演出が全くなされていないということです。ポストモダンが誤解されて困るのも研究者だけです。これなら思弁的実在論とか人新世とか、とにかくこのトピックは新しいんだとゴリ押しする方がまだ少なくとも野心は感じます。


 商業誌として出している以上、研究者をいかに外に引っ張り出すかということを編集者は考えるべきだと思います(雑誌書籍問わずそういう優れた編集者はたくさんいます)。同時に、専門家が集まればそこで取り交わされる議論は必然的にどこか回覧板的になるし、それ自体はいいことでも悪いことでもなく、そういうものだと思います。研究者としてやりつつ自分で学界の外へのプレゼンテーションも作れる人は事実上稀だと思うので、基本的には編集者がそれを導くべきです。以上が僕の考えです。


 そのうえで先日の議論における白江さんの、福尾は「アンチポリコレ」で日記のリツイートはそういう「シェア体制」になっていて、福尾のサイトこそ回覧板で、日記で実存を売って掲示板でSNSでの共感を集めているといった発言は、まったく日記の内容と関係ないうえに不正確で失礼です。そしてそれを自分は善意で言っているというポーズを取るのはそれが事実かどうかと関わりなくパターナリスティックで不愉快です。