7月21日

 すぐ書けるかなと思っていた読書エッセイが思ったように書けず、書評より難しいことになってしまっているんじゃないかと一日悩んでいた。そういえば今日発売だったと千葉雅也・山内朋樹・読書猿・瀬下翔太の『ライティングの哲学』をKindleで買って半分ほど読んだ。とても実践的な本だがすでに締め切りを2日延ばしてもらっている身で読むととても感じ入るところがあり、感じ入っている場合でもないのだけどと思って諦めて寝た。

 それにしても『欲望会議』もそうだったけど、千葉さんは異業種の人たちと喋ってその人らの変なところを最大限活かしつつ話を組み立てるのが本当に上手いなと思った。これは雑誌編集的なセンスともどこか違うし、論争的な座談会でもないし、日本の思想・批評シーンの歴史から見てもとても特殊な能力だと思う。『ライティングの哲学』では「自助グループ」という比喩がされていて、互いに「書けなさ」を吐露しつつそのディティールからノウハウが抽出されるところはまさにと思うのだけど、ポットラックパーティーみたいだなとも思う。それぞれの台所事情がテーブルにバラバラと並んでいて、これどうやって作ったの?というところから話が立ち上がっていく。

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7月20日

 これは非常にあやふやな話なのだけど、「Aと思ったらB」とか、そういう両立なのか切り替えなのか曖昧な言葉を使うのが好きで、内容的にもそういうことをたまに書く。文字通りには両立ではなくAを否定してBを肯定しているのだけど、そう截然と割り切れない感じがある。その感じはどこからくるのか?たぶんひとつにはAだと思わなければBに気づかない感じがあるからだろう。Aにある何かがBの導出を支えていて、導かれたBにはAの幽霊がくっついている。東浩紀的に言えば「可能世界の記憶」がくっついている。

 あと最近は「街には悪そうな人がたくさんいる。というか、昔悪かったけど今はもうくたびれている感じの人がたくさんいる」(6月11日より)みたいな「というか」もよく使う。こっちのほうが知的な判断という感じで、この場合「より正確に言えば」くらいの意味なのだけど、前件と後件の関係は、全体を読んで遡行的に捉えないと特定できない。その感じがナマの思考っぽくて好きなのかもしれない。

 たぶんこれは文法的には接続助詞である「と」の広範で曖昧な機能に関わる話だ、と思って、ciniiで「日本語 接続助詞 と」とかで調べたけどなかなかめぼしいものがヒットしない。そもそも「と」がキーワードとして立っているものだけに検索をフォーカスするのが難しい。なんとか見つけたのが豊田豊子(ものすごくいい名前だ)という方の「接続助詞「と」の用法と機能」という40年くらい前の論文だ。そこでは「と」の機能が5つに分類されている。

  1. 連続:太郎は部屋に入ると、窓を開けた。
  2. 発見:太郎がうちへ帰ると、花子がいた。
  3. 時:夜になると、雪が降った。
  4. きっかけ:窓を開けると、寒い風が入った。
  5. 因果:花子はお金があると、映画を見に行った。

 言われてみればそうだという分類で面白い。しかしやはり後件が示されないとどの機能を担うものか特定できないことこそが「と」のヤバさなんじゃないかと思う。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」が最も有名な「と」のヤバさが効いている一文だろう。普通に読めば発見の「と」だけど、「雪国」はこの小説そのものであるわけで、トンネルを抜けること=本を開くことは雪国に入るきっかけでもある。その多重性が暗→明という極めてシンプルな印象のなかに閉じ込められている。やはり総じて論として立てるためのフレームを設定するのが難しい話だ。まだしばらく頭の片隅に放り込んでおく。

 

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7月19日

 真夜中、というかもう未明。まだこの静かな時間に起きていたくて、お湯を沸かして熱いコーヒーを淹れる。一回めのお湯で粉を蒸らしているあいだに片足を前に出して、もう片足を曲げながら上体を倒して腿の裏を伸ばす。ハムストリング。この筋肉の名前が思い浮かぶといつも小学校のときのサッカークラブの三宅コーチを思い出す。三つ上の三宅くんのお父さんで、三宅くんが卒業してもコーチをしていた。どこかの小学校だか中学校だかの先生で、毎週練習後にテクニックや練習方法をまとめたプリントを配っていて、次の週にそれについてのコメントや個人練習について書いた短い文章を提出させられた。当時はただただ面倒だったが、いま思えばものすごく熱心なコーチだ。お金がもらえるわけでもないのに。その三宅コーチがいつかハムストリングが大事なんだと言って、片足を段差に上げて踵をついて伸ばしていたのを妙に覚えている。彼の指導で覚えているのはそれだけだ。サッカーはその後のことも含めて決していい選手じゃなかったが少なくともまだこうしてハムストリングを伸ばしている。そういえば岡山は三宅姓が多い、と思って、阪大にいたときの指導教員の三宅先生も岡山出身だったことを思い出した。彼は学生時代、岡山大学の法学部哲学科でサルトルの研究をしていたらしい。40年前の岡山大学の法学部でサルトルを読むというのはどういう感じだったのだろうか。当時はそんなことを聞こうとも思わなかった。彼と最後に話したのは3年前に『眼がスクリーンになるとき』が出て、いろいろあってあの修論が本になりました、ぜひお送りしたいので住所を教えてください——僕の修了と同時に彼も退職したので大学には送れない——と電話したときだった。そのあと彼のところによく出入りしていた社会人学生の人にどこかの学会で会って、三宅先生変な本だって言って喜んでましたよと教えてくれた。退職後も大学で『意味の論理学』の読書会をしているらしい。学部2年、彼の授業で初めて出たのが『意味の論理学』の原文講読だった。その授業は第8セリー(この本は章をセリーと呼ぶ)まで行って学期が終わり、また第1セリーから読む読書会をしたと思ったら時期が空いたり人が入れ替わったり『差異と反復』に切り替えたりでまた初めからになりというのを僕がいるあいだも繰り返していた。その読書会いま第何セリーですかと聞くと第4セリーだと教えてくれた。元気にされているだろうか。僕もまだ同じ本ばかり読んでいる。

 コーヒーを持っていつものエディタを開いた。今日で日記を始めて丸半年だ。冬があって春があった。博論の審査があって、引っ越しをして、中くらいの原稿を三つ書いた。もうそれくらいのことしか思い出せないし、これは思い出しているとは言えない。

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7月18日

 ベランダで煙草を吸うたびに、白い月が西から上っていき、夜に黄色くなって東に沈んだ。今度はひとつだけ見える明るい星がそれを追うように弧を描く。ずっと家にいると喫煙がコマ撮りの露光みたいになる。そういうことが嬉しい。本を読むのも原稿を進めるのも、開いて日に晒せば勝手に進むような気がしてくる。少なくともそういう気分でいい気がしてくる。

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7月17日

 コンビニによく売っているサラダチキンがレンジで簡単に作れて、しかも美味しいという動画を見て作ることにした。タッパーに水400cc と適当に塩と酒を入れて、500wで5分レンジにかける。出来上がったお湯に鶏胸肉300gを入れて200wで15分かけて、常温に戻るまで置いておくだけ。お湯にしておくこととゆっくり熱を入れることがポイントらしい。レンジから出して汁を味見してみるととても美味しかったので、彼女にこれすごい美味しいよと言うと飲んでほしいのと言われ、飲んでみてと言うと彼女が一口飲んでけんちん汁みたいと言った。飲んでほしいのは失礼だしけんちん汁みたいは意味がよくわからないのでそう言うと変な感じになった。まあ僕もこれ食べてみてって言われていらないってよく言うし。肝心のサラダチキン本体はまあ美味しいけど、常備してこれがずっと冷蔵庫にあってもダウナーな感じがするなと思った。

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7月16日

 昼。換気扇の下で煙草を吸いながら窓を開けたら急に網戸がガタッと外れ、4階の高さからそのまま落ちてしまうところだったが咄嗟にキャッチした。手を伸ばしたときに窓枠で腰を打った。外れたことよりキャッチできたことに驚きつつ窓枠を傾けて部屋の中に入れて立てかけた。煙草を消して嵌めなおそうと上から嵌めたり下から嵌めたりするがうまくいかない。外れて手が一瞬離れたときの冷やっとした感じが残っている。いちど落ち着いて上下のレールを確認すると下側に小さな滑車がふたつついていて、それが引っ掛かるようだ。押すと引っ込むが手を離すと重さで出てくるようになっている。上下反対にして立てかけて、長いセロテープの接着面を内側に折り込んだもので前面から背面にかけて滑車を抑え、剥がしやすいように端だけ折った別のテープでその両端を貼り付ける。上からそっと嵌めなおすと下側もサッシに収まった。テープを剥がして引っ張るときれいに抜き取ることができた。気づくと汗だくでどれだけ時間が経ったのかもわからない。外れた網戸を嵌めたということの行き場のなさと、その内実のフィジカルな濃さのギャップに戸惑いを感じた。こういうことってある気がする。

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7月15日

 ここのところ書けなくて憔悴していた原稿が終わって、丸一日だらっとして、やっと伸び伸び過ごせる日だった。パソコンを持たずに外に出られるのが嬉しい。音楽を聴きながら散歩をして、本屋に入って買った本を喫茶店で読んで、スーパーに寄って帰って晩ご飯を作った。滝口悠生の『長い一日』を買った。まだ5分の1くらいしか読んでいないけど結構びっくりしている。あと5分の4あるのが嬉しい。まだ先があるのが嬉しいのは久しぶりだ。

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7月14日

 こないだ依頼をくれた編集者がコロナにかかったと思ったら今度は別の編集者から過労で休んでいると連絡があった。僕がお坊さんだったら身を清めて座禅でも組むのだが。相変わらず喫茶店くらいしか出かけるところがないし、あとは一日家にいて炊事掃除洗濯、一箱煙草を吸って、2, 3杯コーヒーを飲んで、風呂に入ってストレッチをして寝て、起きたら日記を書いて。

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7月13日

 もう夕方の5時前。日記を書くのが遅くなってしまった。朝までかかってやっと(やっと!)博論本の序論ができて、それから寝た。しばらく前に水出しコーヒー用のガラスポットを買った。蓋についているフィルターにコーヒーを入れて一晩冷蔵庫に入れておく。しかし出来上がるのは苦めの麦茶みたいな腰の入っていない飲み物で、今まで何度かお店で飲んだ水出しコーヒーも決して美味しくなかったのに、なんでこんなしゃらくさいものに手を出してしまったんだろうと思った。水出しとかコールドブリューって言われるとキリッとした感じがするし、朝起きて冷えたコーヒーがあるのはいいなと思ったのだけど、コーヒーなんてお湯で淹れた方が美味しいに決まっているのだ。昆布じゃないんだから。お湯で淹れて氷で急冷しても溶けた氷で薄まるし、なんなら水出しの方が濃いんじゃないかと思ったが大間違いだった。中間的な形態としてお湯で淹れてそれをポットごと氷水で急冷するというやり方を試したこともあったが、手間も時間もかかるし、もともとアイスコーヒー用の豆でこれをやると苦くなりすぎる。やっぱりアイスコーヒー用の豆で、氷をいちばん上まで入れたグラスに熱いコーヒーを注いでガラガラと混ぜて飲むのがいちばんいいし手っ取り早い。お店で飲むときはなるべく細いプラスチックストローが挿してあると嬉しい。

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7月12日

 食後、ベランダで煙草を吸う。Amazonのアプリを開いて先が尖った棒の温度計を注文する。牛もも肉の安いのを見つけて作ったステーキがうまく一発で焼けなかったのだ。夜中なのに西の空が赤茶色にくすんでいる。足元に室外機のぬるい風が当たる。この一年のあいだ体表の温度はさんざん測られている。いまだに検温は屈辱的な感じがする。体の内部もせいぜい36度くらいなんだろうか。ステーキも50度くらいで火が入り始めてしまうわけだから、やはりそうなんだろう。

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