8月30日

引っ越してきて半年ほど経つが家具がまばらだったのでIKEAのサイトを見てスツールやベッドサイドテーブルを注文した。これくらいなら増えてもいいだろう。リビングにせっかくある程度開けたスペースがあるのでそこには簡単に動かせるものしか置きたくない。今はそこに寛ぐための軽いローチェアが一脚ある。その脇に置くための小さいテーブルも注文してみた。天板のうえにアーチ状の取手がついていて、片手で持ち運べるようになってはいるが、置いてみないとどれくらい動きが変わるのかわからない。いくら軽いとはいえひとつがふたつになるのは結構なことだ。

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8月29日

「パフォーマティブ」という概念にここ数十年込められてきた念のようなものは、どこからくるのかというと、哲学が自身の存在根拠を思考にではなく自身が用いる言葉に見出すという、ある種の後退の果てからきているのだと思う。神なき時代は政治の外なき時代であって、哲学は政治への内在か政治の外の再発明かの選択を迫られる。僕はわりと素朴に政治の外はあるでしょと思うのだけど、それが生存の美学みたいなしみったれたものだったら嫌だなとも思う。ともかく、パフォーマティビティは哲学が政治の内部で自身の価値を弁護する最後の砦で、いわゆる「運動」へのコミットメントとの両輪で哲学の実効性は調達される。でもそれは止まったら壊れる軸の浮いた車のようなものではないか? そして命令が命令として、質問が質問として機能するためにはあらかじめそうする権限がなければならない以上、パフォーマティブは自身が相続したものを切り崩しつつそこにしがみつくような振る舞いでしかない。それはいわば哲学の政治への外在だ。哲学が現実に「作用」するとしたら結局のところイデオロギーとしてそうするしかないので警戒すべしということだろうか。これはまっすぐにそうだろうと思う。偉そうだとか現状追認にすぎないとか空論だとか哲学に向けられる不信の数々はすべて妥当だと言ってもいいと思う。でもそういうのは哲学とぜんぜん関係ない。

ばらばらと書いてきたが、ここ3日の日記に通底する問題が何なのかいまいちはっきりしない。何かあるのは間違いないのだけど。

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8月28日 

ゆるやかに昨日の続き。現代はどういう時代かというと、言説の力の匿名化と、個別の言説の主の特定可能性が相補的に機能するという、一見逆説的なことが起こっている時代だと思う。

フーコーは「作者とは何か」のなかで、作者(author)を言説の源泉としてではなく、言説を取りまとめ流通させ価値づけるひとつの機能ないし関数(function)として定義した。ツイッターのアカウントみたいなものだ。そこには言葉についての経済学的なアナロジーがある(アカウントには「口座」という意味もある)。言葉はそれ自体としては匿名的なものとして考えられており、だから彼は誰が話そうと構わないではないか、誰が言っても同じことではないかという言葉の考察から議論を始める。

たとえば掲示板での犯罪予告、SNSでの誹謗中傷、これらは誰が言っても同じ効果を及ぼす言葉であり、そこに一切の権威(authority)は要らない。誰が言っても同じだが、インフラのレベルで言説の経路が個別化されているので、声紋分析や筆跡鑑定を待つまでもなく発言の主を特定し、威力業務妨害なり名誉毀損なりで訴えることができる。誰が言っても同じことの誰が言ったかの特定可能性。フーコーの時代は特定可能性ということに関しては身体的、臨床的なデータの統計的収集という「個人化の技術」を想定していたが、いまやその技術は発声や書記という身体運動からも引き剥がされている。

それで、書いてみたら何が昨日の続きなのかわからなくなってしまったのだけど、ともかく、言説の力の匿名化と言説の主の特定可能性は分かち難く絡み合っている。ミームは匿名のままに特定の言説空間への帰属を示すものであり、スパムは自分が誰であるかを信じてもらうために言説を匿名化するものだと言えるかもしれない。だから何だという話だし、やはり何が昨日の続きなのかピンとこないのだけど。

 

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8月27日

 これは非常に大事な直感だと思うのだけど、最近よく見る、ネットやパソコンに疎かった親がスマホを持つようになってYouTubeでネトウヨ動画を見て感化されてしまったというエピソードは、そういうことがあるということと同じくらい、それがエピソードとして極めてツイッターと親和性が高いものであることも重要だと思う。これは現代のメディア環境の地政学的な縮図としてよくできている。しかしこれが極限的なケースであることも確かで、あからさまな嫌中・嫌韓の安っぽい動画というより、いわゆる保守系の言論人の動画のほうが目立っていると思う。したがってネット経験の浅い世代がやすやすとYouTubeで陰謀論に感染するというのは、それ自体一種のバイラルな陰謀論だとすら言えると思う。しかし大勢としてはそういう、不安を特定の他者に投影する陰謀論的な思考が互いにバッファとして機能して棲み分け——というか、それぞれ相手を藁人形化することによるすれ違い——が起こっていることに対して、良いとか悪いとか言うのは難しいなと思う。

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8月26日

 晩ご飯にエビチリを作った。今まで普通の日本酒とお酢を使っていたのだけど、紹興酒と近所の中華食材店で買った黒酢を使って作ってみたらフルーティなコクが出てとても美味しかった。ニンニク、生姜、ネギを刻んで、紹興酒、醤油、黒酢、砂糖の合わせ調味料を混ぜておく。海老の背ワタを取って、水溶き片栗粉を用意しておく。ここまでが下準備。海老を殻のまま焼いて、ひととおり火が通ったら鍋から上げる。残った油にニンニクと生姜、豆板醤、ケチャップを入れて弱火で香りを出し、合わせ調味料を入れて沸騰したら海老を戻し入れる。水溶き片栗粉でとろみを調節してネギを入れてざっと混ぜ合わせたら出来上がり。料理は手順を書くだけでそれっぽくなるので日記で楽をするのにいい。これに匹敵するのは都内の移動だ。描写らしい描写を入れなくても地名やランドマークが続くだけである程度読めるものになる。

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8月25日

 去年通して5回連載で書いた「スモーキング・エリア」(プロフィールから各回のページに飛べます)の校正をしていた。話がややこしいのだけど、これは「約束の凝集」という、ひとりのキュレーターが5人の作家の個展を通年で組織する展覧会に寄せたエッセイだ。それぞれの会期に合わせて、ギャラリーのツイッターアカウント上でエッセイを掲載する、しかし展示とエッセイの内容は無関係、という、この時点でわりと複雑なことになっている。そのうえで開始がコロナとぶつかって、全体の会期が変更になり、それも切り詰めるのではなく逆に2年に拡張しつつそれぞれの会期も長くするという、多くの展示が中止や短縮を迫られるなか謎の運びとなった。それで僕のエッセイはもとの会期に取り残されて、去年のうちに5回書き終わって、展示のほうはいま4人目の荒木悠さんの個展が行われている。

 それで、展示のカタログに載せるための校正をしていた。どんな文章でもある程度時間が経つとこれは本当に自分が書いたのかという不気味なところが出てくるが、博論で追い詰められている時期に書いた#4と#5は読んでいて怖くなるくらいいびつな構成になっている。内容もなんだか辛そうだし。でも痛みと離人というテーマはこれを書く前はまったく考えていなかったことだし、なりふり構っていられない状況だからこそ出てきたものだろう。ちょっとした言葉遣いだけ直してあとはそのまま返すことにした。

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8月24日

 なんとなく10日くらい伸ばしていた髭を剃った。いよいよ気晴らしの手も尽きてきたのか、いつもと違う歩き方で散歩したりしている(階段を降りるときのように歩く)。暇な日曜日の子供みたいにあてどなく手持ち無沙汰だ。団地に住んでいたから遊び相手にはそんなに困らなかったが、それでも今日は誰もつかまらないなという日は本当に暇だった。夏休みももう終盤でそういう子供がたくさんいるのかもしれない。YouTube? ゲーム? そういうことではないのだと思っているだろう。そういうものの裏に深い退屈が横たわっていることは彼らのほうがよく知っている。彼らがそういうものをやるのは退屈じゃないフリをしてやり過ごすためだ。子供は苦手だし、子供のほうが実は的な語りは嫌いだけど退屈のことに関してはそう思う。

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8月23日

 初めて会う編集者に関内まで来てもらって喫茶店で打ち合わせ、というか、何をやるかも決まっていないのでとりあえずばらばらと雑談して、3時間くらい話した。こんなに長く仕事の話をしたのが久しぶりですっかり疲れてしまったので帰ってしばらく寝ていた。起きたときに、ここ5年くらいで僕のテーマは「第三者性なきフェアネス」から「ふたりでいるのにひとりになるための第三者性」に変わってきたんだろうとふと思ってそうメモした。自立した個人がそのつどの他者と、第三者的な構造から離れてそのつどのフェアな関係を結ぶというユートピア的でポリアモリー的なものへの諦めがどこかで起こったのだと思う。でも第三者って、ある関係を「先輩後輩」とか「恋人」とか「家族」とかそういうかたちで社会化して固定するだけじゃなくて、こうして煙草やコーヒーがテーブルにあるみたいに、ふたりでいながらひとりになるきっかけを与えるものでもあるじゃないですか、それをとりあえず「デコイ」とかって言ってるんですけど、という話をした。たぶん家族であることすらデコイになるし、こういう筋の立てかたのいいところは、理念めいたものを追求しなくても見方を変えればそこらじゅうで起こっていることだということだ。よくないところは現状追認だと思われてしまうところで、でも言葉で何かを変えるということはそういうことだと思う。それが結果として論文になるかアジテーションになるかということは二次的なことだ。

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8月22日

 締め切りが3週間後くらいの短い文章があって、具体的な作業に取り掛かっているわけではないが頭の隅っこでそのことがぐるぐると回っている。フレーズの切れ端やタイトルの案がときおり思い浮かんで、メモしたりメモし忘れて忘れたりしている。思いついたタイトルのひとつは「冗長性を上げる——スパムとミームの対話篇」で、もうひとつは「日本語に草を生やす」。どちらもすごくいいタイトルだと思うのだけどまだ何を書きたいのかよくわからない。ものの名前を考えるのが好きなのだけど、名前がよすぎるとそれに囚われてしまうところもある気がする。もうしばらく寝かせておこう。

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8月21日

 展示のレビューを読んで、作品への言及がぜんぜんなくてびっくりしたと呟いたら、そんなことを言うのはこのレビューで問題とされている美術界の男性中心主義の目くらましだ、トーンポリシングだと言われた。言ってきた当人がどう思っているかはともかく、ひととおり議論してそれが言いがかりであること、僕なりの必然性に基づいた考えがあることについてある程度説得的な話ができたと思う。それにしても大変だなと思うのは、おそらくその人も僕がマッチョイズムを是としていると思ったわけではなく、そう誤解することが可能であり、そう誤解することが可能であるということが引き起こしうる——これも可能性だ——効果をもってトーンポリシングと言ったのだと思う。いや、もしかしたらそう誤解されうるようなことを言うことはそれをそのまま言うことと同じであり、したがって僕はマッチョなやつだと本当に思った人もいるのかもしれない。めちゃくちゃな話じゃないか。誤解は誤解なのだ。

 重要なのは、こういうことは僕だけじゃなくて、いろんなところでイデオロギーにかかわらずなされているということだ。有名人の炎上は明白な失言をきっかけにすることが多いが、とくに知識人的な人はそんなことは滅多にしないし、オーディエンスの規模も違うのでそういうのとは質が違うボヤ騒ぎみたいなものがそこここで起こっていて、こっちのほうが文化的、社会的な意識の高い層での発言の萎縮に強く関わっていると思う。そのきっかけになっているのは誤解そのものではなく誤解可能性だ。誤解への対処と、誤解可能性への対処はまったく異なることだ。誤解が起こらないようにするためには、自分の考えをなるべくはっきりと述べればいい。しかし誤解可能性を減らすためには——当然ゼロにはならない——なるべくみんなと同じことを言わなければならない。このふたつを截然と分けることはできないにしても、このふたつのレベルがあること自体は確かなことだと思う。誤解には誤解だと言えばいい。しかしこういう誤解が可能ですよねと言われても、究極的にはそうですねとしか言いようがない。そういう人が数人湧いてくるだけで一人の人間の発言の意欲を削ぐのには十分だ。

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