8月18日

 安田敏朗の『「国語」の近代史』を読み終わった。明治以降の国語学者たちが、諸制度の近代化、植民地化、戦争、敗戦後の民主化のなかで「国語」にどのような意味をもたせ、整備することを試みてきたか書かれた本。はっとさせられたのは、「国語」を「日本語」に置き換えて中立性を装うのは——国語学会が日本語学会に改称したのは2004年らしい——台湾や朝鮮といった植民地で日本語が「国語」として教えられ、満州や南洋では日本語が「日本語」として教えられるように、それだけでは言語的ナショナリズムないしエスノセントリズムを脱するものではないという指摘だ。むしろ例えば日本の小学校では「国語」と言い、外国人技能実習生向けの学校では「日本語」と言うこの二重性自体が戦前からの連続性のもとにあるということだろう。とはいえこの構造を掘り崩すのはものすごく難しいことだし、それが本当にいいことなのかということも正直なところよくわからない。著者は最後に言葉を「わたし」に帰属するものと考えるべきではないかと述べて本書を閉じていて、一面では共感するが、それはフランス語を国語とすべしと言った志賀直哉の主張の裏返しのようにも思える。新書というスケールでひとつの歴史的な軸を通すためか、具体的な言葉のありようの問題としては表記の問題(漢字仮名交じり、カナモジ、ローマ字、歴史的仮名遣い、表音的仮名遣い)が中心に取り上げられていたので、日本語文法の学説史も読んでみたいなと思った。ちょうどいい本があるといいけど。

 本書を読んでいて、並行して読んでいる梅棹忠夫の『日本語と事務革命』のことを思い出して、ワープロの日本語入力の歴史をググって1978年に作られた初めての日本語ワープロ「JW-10」のウィキペディアのページに飛んだ。この時点で独自の——既存の国語辞典だけでは人名や専門用語などをカバーできない——辞書作成や形態素解析をもとにしたかな入力→変換というかたちが出来上がっていたのは驚きだ。脚注を辿って見つけた武田徹の『メディアとしてのワープロ:電子化された日本語がもたらしたもの』と、以前カートから外したティエリー・ポイボーの『機械翻訳:歴史・技術・産業』をアマゾンで注文した。

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カテゴリー: 日記