8月21日

 展示のレビューを読んで、作品への言及がぜんぜんなくてびっくりしたと呟いたら、そんなことを言うのはこのレビューで問題とされている美術界の男性中心主義の目くらましだ、トーンポリシングだと言われた。言ってきた当人がどう思っているかはともかく、ひととおり議論してそれが言いがかりであること、僕なりの必然性に基づいた考えがあることについてある程度説得的な話ができたと思う。それにしても大変だなと思うのは、おそらくその人も僕がマッチョイズムを是としていると思ったわけではなく、そう誤解することが可能であり、そう誤解することが可能であるということが引き起こしうる——これも可能性だ——効果をもってトーンポリシングと言ったのだと思う。いや、もしかしたらそう誤解されうるようなことを言うことはそれをそのまま言うことと同じであり、したがって僕はマッチョなやつだと本当に思った人もいるのかもしれない。めちゃくちゃな話じゃないか。誤解は誤解なのだ。

 重要なのは、こういうことは僕だけじゃなくて、いろんなところでイデオロギーにかかわらずなされているということだ。有名人の炎上は明白な失言をきっかけにすることが多いが、とくに知識人的な人はそんなことは滅多にしないし、オーディエンスの規模も違うのでそういうのとは質が違うボヤ騒ぎみたいなものがそこここで起こっていて、こっちのほうが文化的、社会的な意識の高い層での発言の萎縮に強く関わっていると思う。そのきっかけになっているのは誤解そのものではなく誤解可能性だ。誤解への対処と、誤解可能性への対処はまったく異なることだ。誤解が起こらないようにするためには、自分の考えをなるべくはっきりと述べればいい。しかし誤解可能性を減らすためには——当然ゼロにはならない——なるべくみんなと同じことを言わなければならない。このふたつを截然と分けることはできないにしても、このふたつのレベルがあること自体は確かなことだと思う。誤解には誤解だと言えばいい。しかしこういう誤解が可能ですよねと言われても、究極的にはそうですねとしか言いようがない。そういう人が数人湧いてくるだけで一人の人間の発言の意欲を削ぐのには十分だ。

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カテゴリー: 日記