8月28日 

ゆるやかに昨日の続き。現代はどういう時代かというと、言説の力の匿名化と、個別の言説の主の特定可能性が相補的に機能するという、一見逆説的なことが起こっている時代だと思う。

フーコーは「作者とは何か」のなかで、作者(author)を言説の源泉としてではなく、言説を取りまとめ流通させ価値づけるひとつの機能ないし関数(function)として定義した。ツイッターのアカウントみたいなものだ。そこには言葉についての経済学的なアナロジーがある(アカウントには「口座」という意味もある)。言葉はそれ自体としては匿名的なものとして考えられており、だから彼は誰が話そうと構わないではないか、誰が言っても同じことではないかという言葉の考察から議論を始める。

たとえば掲示板での犯罪予告、SNSでの誹謗中傷、これらは誰が言っても同じ効果を及ぼす言葉であり、そこに一切の権威(authority)は要らない。誰が言っても同じだが、インフラのレベルで言説の経路が個別化されているので、声紋分析や筆跡鑑定を待つまでもなく発言の主を特定し、威力業務妨害なり名誉毀損なりで訴えることができる。誰が言っても同じことの誰が言ったかの特定可能性。フーコーの時代は特定可能性ということに関しては身体的、臨床的なデータの統計的収集という「個人化の技術」を想定していたが、いまやその技術は発声や書記という身体運動からも引き剥がされている。

それで、書いてみたら何が昨日の続きなのかわからなくなってしまったのだけど、ともかく、言説の力の匿名化と言説の主の特定可能性は分かち難く絡み合っている。ミームは匿名のままに特定の言説空間への帰属を示すものであり、スパムは自分が誰であるかを信じてもらうために言説を匿名化するものだと言えるかもしれない。だから何だという話だし、やはり何が昨日の続きなのかピンとこないのだけど。

 

投稿日:
カテゴリー: 日記