8月20日

 日記を始めて7ヶ月経った。1年で区切ってやめようと思っているので、もう完全に折り返している。とはいえ1年やったからといって何が出来上がるわけでもなく、やりきって何が完成するわけでもないものを自ら強いて書き続けるのがどういうことなのかいまだによくわからない。松江にいるあいだ滞在していた部屋はマンションの10階にあって、そのマンションには妙にがらんとしたエントランスがあって、通るたびにここでは何も起こりようがないなと思っていた。発泡スチロールみたいに白い光に満たされていて、ガラス張りになった2畳ほどの狭い中庭に砂利が敷かれ細くて低い木が1本生えている。中庭があることがかえってエントランスの空虚さを強調しているようで、その空間にどこか親近感を感じていた。通り過ぎる以外のことをしようとするととたんに手持ち無沙汰になるような空間。日記もそういう空間にある気がする。

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8月19日

 昼頃に起きたら英語のエッセイの翻訳というよくわからない仕事の依頼が来ていた。送られた原稿をざっと読んで僕じゃなくてもいいなと思った。洗濯を回して掃除機をかけて、恐縮ですがお引き受けできかねますという返事を書いて送った。美術系の人はよくわからない仕事を振りがちだ。そういうときはだいたい、実作者に対する理論家としてではなく、準−作家的な位置づけで扱ってくれているんだと思うんだけど、そういうのは信頼関係がないと難しいことだ。あるいは今回はたんに、出典作家のテクストを僕が翻訳することで文脈に厚みが出るといういかにも現代美術っぽい手口なのかもしれない。でもそんなのフックにもなんにもならない。いずれにしてもノーだ。思い出していたらだんだん暗い気持ちになってきてしまった。

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8月18日

 安田敏朗の『「国語」の近代史』を読み終わった。明治以降の国語学者たちが、諸制度の近代化、植民地化、戦争、敗戦後の民主化のなかで「国語」にどのような意味をもたせ、整備することを試みてきたか書かれた本。はっとさせられたのは、「国語」を「日本語」に置き換えて中立性を装うのは——国語学会が日本語学会に改称したのは2004年らしい——台湾や朝鮮といった植民地で日本語が「国語」として教えられ、満州や南洋では日本語が「日本語」として教えられるように、それだけでは言語的ナショナリズムないしエスノセントリズムを脱するものではないという指摘だ。むしろ例えば日本の小学校では「国語」と言い、外国人技能実習生向けの学校では「日本語」と言うこの二重性自体が戦前からの連続性のもとにあるということだろう。とはいえこの構造を掘り崩すのはものすごく難しいことだし、それが本当にいいことなのかということも正直なところよくわからない。著者は最後に言葉を「わたし」に帰属するものと考えるべきではないかと述べて本書を閉じていて、一面では共感するが、それはフランス語を国語とすべしと言った志賀直哉の主張の裏返しのようにも思える。新書というスケールでひとつの歴史的な軸を通すためか、具体的な言葉のありようの問題としては表記の問題(漢字仮名交じり、カナモジ、ローマ字、歴史的仮名遣い、表音的仮名遣い)が中心に取り上げられていたので、日本語文法の学説史も読んでみたいなと思った。ちょうどいい本があるといいけど。

 本書を読んでいて、並行して読んでいる梅棹忠夫の『日本語と事務革命』のことを思い出して、ワープロの日本語入力の歴史をググって1978年に作られた初めての日本語ワープロ「JW-10」のウィキペディアのページに飛んだ。この時点で独自の——既存の国語辞典だけでは人名や専門用語などをカバーできない——辞書作成や形態素解析をもとにしたかな入力→変換というかたちが出来上がっていたのは驚きだ。脚注を辿って見つけた武田徹の『メディアとしてのワープロ:電子化された日本語がもたらしたもの』と、以前カートから外したティエリー・ポイボーの『機械翻訳:歴史・技術・産業』をアマゾンで注文した。

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8月17日

 2週間ぶりに翻訳を進めようと思ったらこれまでの訳文のチェックに時間を取られ少ししか進められず、ちょっとずつでもなるべく毎日やらなきゃダメだなと思った。なんだかんだで日記だけでなくストレッチもここ数ヶ月毎日やっている。わかってきたのは、大事なのはどの筋がどれくらい伸びるかということより、どういうイメージをもてば結果的に体が軽く、広く動くようになるかということだ。たとえば伸脚を深くするとき、軸足の踵が浮いてしまうのは足首が硬いからだと思っていたけど、膝を上に畳みつつ股関節を外転させて重心の位置を調整すれば踵を付けたまましっかりお尻を下ろすことができる。筋を伸ばす以上どこかしら固定しなければいけないが、壁を両手で押しながらアキレス腱を伸ばすような、挟み撃ち的に負荷を局在化させるウェイトトレーニングのようなストレッチは体をほぐすのには向いていないだろう。「股関節周り」とか「肩甲骨と肋骨」とか、そういう準−大域的なレベルでほぐすのには固定と解放の塩梅が重要だ。博論に追い込まれていたときに痛いくらい凝っていた首もすっかり楽になったが、特に首を伸ばすストレッチをやっているわけでもない。

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8月16日

 珈琲館でぼおっとしていると横浜に帰ってきたという感じがした。古田徹也の『言葉の魂の哲学』と中公新書の安田敏朗の『「国語」の近代史』を代わりばんこに読んでいて、最近言語論ばかり読んでいるなと思う。学部で映画研究をして修士で『シネマ』をやって、その延長としてやっていたような映像作品の批評から、表現形式にかかわらずいろいろ書くようになって、エッセイなんかも頼まれるようになって、他方研究ではドゥルーズを哲学論とその実践として読む博論を書いて、それが終わってなぜか日記を毎日書いている。ぱっと見脈絡を失っているように見えるし、場当たり的にやっているところも間違いなくあるけど、修士で哲学に変えたのが卒論を書いて何をしたことになったのかよくわからないという理由だったし、批評でも哲学でも見よう見まねでやってみてはいるが、結局それが何なのかよくわからないんだと思う。それで言語について読んだり、日記を書いたりしている。それで今は日記とは?みたいになっているわけで世話がない。都会にいると研究や文筆が自然な場所に放り込まれた余所者として考えることを促される感じがあるけど、あのまま松江にいたらどうなっていたんだろうと思う。坂口恭平みたいに地方でバリバリやっている人はすごい。そういう人のほうが自然にやれるんだと思う。

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8月15日

 起きて一昨日の日記を書いていなかったことに気づいて動揺して、昼に13日の、夜に14日の日記を書いた。横浜も雨で、寒いので靴下を履いた。短めの原稿の打ち合わせをzoomで。日記について話したりしたのだけど、こないだ書いたエッセイも日記のことを書いたし、自分で書いている日記について書いて仕事にするのも大概だよなあと思う。でもなんというか、コロナ禍でもドゥルーズでも展示でもなんでもいいが、すでに公的なものとなっている対象について書いて、それによって文章の社会的な地位が——対象に紐づけられた読者層とともに——あらかじめ確保されているということがどういうことなのかわからなくなってきたんだと思う。

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8月14日

 米子空港まで送ってもらって、鯖寿司の弁当まで買ってもらって、羽田から京急で横浜の家まで帰ってきた。鯖寿司は軽く燻されていて、オリーブオイルと胡椒をつけて食べるようになっている。醤油だとしょっぱさで鯖の匂いと苦味を打ち消すような感じになるけど、オリーブオイルだと鯖のしょっぱ苦さがオイルの風味と馴染む感じで新鮮だった。ポストに届いていた梅棹忠夫の『日本語と事務革命』が面白くて、疲れていて他に何をする気も起きないのでずっと読んでいた。

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8月13日

 今は15日の昼。一昨日の日記を書くのを忘れていたことに気づいてびっくりした。昨日の日記を書かなきゃということは14日の朝からずっと頭の片隅にあったのだけど、いつの間にか「昨日」が昨日の昨日になっていた。書くのが翌日になるのが常態化してからもずっと毎日書くということは半年間欠かさずにきたので結構ショックだ。まあ起こってしまったことはしょうがない。そして日記が起こってしまった、その日をはみ出すことを書いたり書かなかったり書けなかったりするものである以上、このこと自体もどこか日記的なものだと思う。書かれる出来事と書くことのあいだで、本当にいろんなことが起こる。

 さて、それで13日のことなのだけど、福山のホテルをチェックアウトして、車で40分ほどのところにある実家に向かった。母の仕事の関係であんまり長居できないので1時間ほどの帰省だった。九州から中国地方にかけていたるところで大雨警報が出ていて、まだらに分厚くなった雨雲をくぐりながら山陰に戻る。中国山脈にぶつかる手前のところで通行止めになった区画があって、そこで高速を降りて一般道を30分ほど北上する。対向車が来てもすれ違えないような道で小さな山をひとつ抜けて、高速の入り口でそこから米子道に入れることを確認する。蒜山サービスエリアでご飯を食べて出ると真っ暗で、道にも灯りがまったくない。頼りになるのはせいぜい50メートル先くらいにしか届かないヘッドライトと、空中でかぼそく光るだけでまったく距離感のつかめない路側の反射板だけだ。ヘッドライトはまっすぐ前しか照らさないのでその外の暗闇で道がどれくらい曲がっているのかわからず、タコメーターの液晶に表示される近景のナビで道路の形を確認する。ほんのちょっとの傾きのカーブだと頭でわかっていても、正面で反射板が光るたびに曲がりきれずそこに突っ込むイメージがよぎる。近づくほどに反射板は後ずさりし、同時に道は向こうで誰かが引っ張ったように伸びていき本来の緩やかな傾きを取り戻す。米子から松江に向かって西に折れたあたりでやっと先行車を見つけて、そのあとはずっとそれを提灯のように100メートルほど先に置きながら走った。

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8月12日

 財布と、携帯と、煙草とライターと、車の鍵がポケットにある。松江から山陰道を西に向かって宍道ジャンクションで南に折れて、あとはひたすら1キロ以上のトンネルが連なる道で山脈を貫く。ハンドルに乗せた手が腕の重みで痺れてくる。尾道で東に折れて山陽道に入って福山で降りる。ジョリーパスタでご飯を食べて、駅の近くに取ったホテルに車と荷物を置いて、近くを歩いた。このあたりも8時閉店のお店ばかりだ。駅ビルのお店で弁当を買って、部屋に戻って食べた。

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8月11日

 何か話したほうがよいのだろうけど、頭が読み取り専用になったように、聞こえてくる言葉がただ流し込まれる。僕はそういう言い方はしない、という細部への引っかかりだけが主体性めいたものとしてあってそこから出られず窓を眺めて、窓を眺めている人になった。だしぬけに好きな食べ物はありますかと聞かれ、食べるのは好きだけど好きな食べ物はとくにありませんというのが正直な答えだと思ったけど、そういうのは正直ではないのだと思いなおして肉ですねと答えた。

 部屋に三面鏡があって、いつぶりか自分の横顔を見た。最近よく人から痩せたと言われ、そのたびに髪切ったからだと思いますと言っていたのだけど、横から見ると確かに痩せていた。

 布団に入って、何か即興で怖い話を考えたら面白いんじゃないかと思って、夏、フェリーで隠岐島に行く。ハッチが開いて車を出すと両脇に島民が並んで、バンザイをしながら「ありがとう」と叫んでいる、というところで話が終わってしまった。

 そのあと見た夢の話。何かの営業マンと向かい合って座っていて、彼は「クリスチャン・ディオール」という名前の自動車保険会社の人だ。「クリスチャン・ディオールは、デザイナーの名前でもブランドの名前でもありません」というのが彼が話し始めるいつものやり方だ。

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