9月29日

昼に起きてメールを4通返したら疲れてしまった。断るのも心苦しいけど断らざるをえない依頼とかパワーのいるメールもあった。メールのよくないところは送ったら返ってくることだ。とくに送ってすぐ返ってくると、どうしてかメールだと相手が不在のあいだに投げているという感覚があるので、まごついてしまう。「よろしくお願い申し上げます」とかそういうのは、短くても2日くらいのスパンを想定した言葉であるべきではないか。校了直前の加速度が付いたやり取りとか、そういうのはチャット的な言葉でチャット的な速度でできるから楽なのだけど。

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9月28日

夜、散歩しながらツイッターのスペースで大和田俊と喋った。ステレオはヤバいという話とか、日付は怖いという話とか。彼は9月11日を、今日は9月11日で、ナインイレブンから20年だと思いながら過ごし、同時に、9月11日に入っていた予定を忘れていたわけでもないのにすっぽかしてしまったらしい。その9月11日とこの9月11日の乖離。これは日記を書いているととてもよくわかる話だ。僕はそれをとりあえず「日々と生活のあいだ」と呼んでいるのだけど、そこには不気味な川が流れている。毎日、毎週、毎月、毎年という循環的な時間に寄りかかって日々と生活のあいだに橋をかけることはできる。でもそれはあくまで橋であって、川はつねにその下で橋桁を舐めている。日記を書いているとだけ言うと、毎日の生活の些細なことを愛で、「丁寧な暮らし」と呼ばれるような日々と生活の調和を描いているのだと思われるかもしれないけどそれはまったく反対で、日付を書き間違えたり、1日書き飛ばしたり、何も思い出せなかったり、別の日に飛ばされたりで、どちらの岸にも辿り着けずに翻弄されているというのが実情だ。でもそれが時間というものの姿ではないか。

帰ってベランダで、柵に肘をついて煙草を吸っていると、一瞬指がゆるんで煙草が傾いて外に落としてしまいそうになる。咄嗟に持ちなおす一瞬のうちに、煙草ではなく自分が頭から、ちょうど干した布団がずるっと外側に滑り落ちるように、落ちるような感覚が背筋に走った。ぼおっと見ているうちに煙草の先端が頭になっていたのだろう。

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9月27日

ベランダに置いてある硬いゴムみたいな素材のサンダルが縮んで履けなくなってしまっているのに気がついたのが3日くらい前で、その日に近所の商店街のハマモードという服やブランケットやスリッパなど、とにかくいろんなものが恐ろしく安く買えるお店に言ったのだけどサンダルはなかった。その足で縮んだサンダルを買ったドラッグストアに他の種類のものがあるだろうと思って行くともうそういう雑貨のコーナーは冬物の毛布とかになっていた。翌日の深夜に伊勢崎町のドンキホーテに行って、たしかにいろいろあるのだけど、どれもふざけたデザインかおじいちゃんみたいなやつか、あとは2500円くらい出してクロックスを買うかという感じでなんだか暗い気持ちになってきて買わなかった。彼女がドンキはぶらぶら歩くぶんには楽しいけど何か探しに行くとつまらないと言った。帰ってスマホからアマゾンでベランダ サンダルと検索すると1000円くらいでちょうどいいデザインの、「縮まない!」と書いてあるやつが見つかったので買った。それが今日届いて履いて煙草を吸った。

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9月26日

朝ご飯にポークたまごおにぎりを作ってそのことについて日記を書いて、今日はもう何もしないでいようと思って一日だらだらしていた。あいかわらずストレッチは続けていて、凝りがなくなるを通り越して動きがよくなってきたと思う。寝起きも体が軽いし。ずっとやっていくと特定の筋を伸ばすということから関節をなだめすかしてある動きを許していく、あるいは腱に神経を通すという感じになってくる。書いたことすら忘れた昔のノートが引出しの奥から出てくるようなある種の想起の感覚もある。最大限に意味を拡張すればこれはリハビリだ。逆に言えばダンスとか武術とかのすごい人は体が脳みたいになっているんだと思う。そもそも両者を区別するのは、と言うのは簡単だが、そもそも両者が区別されしまっていることこそが問題なのだとも言える。

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9月25日

スパムとミームについて書いた文章のゲラを待っている段階で、もうちょっと調べようと思っていた食べ物のスパムのことを調べていて見つけた論文を読んだ。オックスフォードから出ているDevouring Japan: Global Perspectives on Japanese Culinary Identityという論集に入っている “LOVE! SPAM!” : Food, Military, and Empire in Post-World War II Okinawaという論文。戦後の沖縄でのアメリカによる統治をきっかけにして、第二次大戦で軍用食料として広まったスパム(ランチョンミート)がどのように沖縄に根づいていったかが論じられている。体制の内面化と、それを逆手に取りつつもとの文化と調停させる機知とが裏表になっていて、なんだか居ても立ってもいられなくなってスーパーにスパムを買いに行った。

今朝それでポークたまごおにぎりを作って食べた。卵焼き器もなくて量の加減もわからないからきれいな形にならなかったけど、とてもおいしかった。もともと独自の調理法のもと親しまれていた豚の牧畜資源が戦争で破壊されたあとにアメリカからもたらされたスパムが「ポーク」と呼ばれ、様々なレシピが編み出されいまでは沖縄の県民食となっている。作って食べてみるよりほかに何もできなかった。

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9月24日

昨日タレに漬けていたスペアリブを焼いて食べた。オーブンは使い慣れていないので難しかった。180度で計40分くらい火を入れたのだけど、なかなかバチッと焼けた感じにならない。安い電子レンジだからしょうがないのだろうか。中の火加減はちょうど良かったので、ローストビーフみたいにフライパンで表面を焼き付けてからオーブンで火を通すといいのかもしれない。

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9月23日

とくに何もなかったので、風呂に入っているときに思い浮かんだ場面を書く。足の爪切るときとか、右手で爪切り持ってて右足の小指の爪切るの難しいときとかないですか、体が突っ張っちゃって。ああ。それと似た感じで、アゴの左側のほうがヒゲの剃り残しが多かったりするんですよ、僕右目が効き目で、左側を鏡に向けると、目が届かなくなっちゃうんです。いや、それはよくわかんないです。効き目どっちですか。わかんないですね、ないんじゃないかな。ないってどういうことですか。

もうひとつ。彼はその日のレジュメが配られると、鞄からモバイルスキャナーを取り出して、iPadに繋いでスキャンし始めた。なんとなくみんな黙って、作動音を聞きながらそれを見ていた。待たずに進めるのも変な感じだし、咎めるようなことでもないし。スキャンが終わった紙を畳んでファイルに入れると、先生がこれは単純に興味があって聞くのだけどというトーンを全力で込めながら、あとでスキャンすればいいんじゃないかと聞いた。彼は後だと書き込みながら聞けないんでと言った。いや、紙に書き込んでスキャンすればいいんじゃないかと聞くと、彼は紙には書き込みたくないと言った。

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9月22日

荒木悠さんの個展をαMで見た。「約束の凝集」のvol. 4。作品の外に重心がある感じが独特だと思う。《Eclipse》は蜘蛛の糸にぶら下がった小石とその下に添えられた手を撮影した映像作品。風にかすかに揺れる小石の落下に備えるように手が動く。蜘蛛の糸はたまに光の加減で反射して見えるくらいで、手が石を浮かせているように作ったCGみたいにも見える。手首から先と5ミリほどの小さな石だけが映っていて、背景は完全にぼやけているので実際そういう非現実的な感じがある。蜘蛛の糸は巣に繋がっているはずで、手は胴体に繋がっている。同じように、映像はカメラで撮影され、プロジェクターで投影されている。作品の外にあり、作品を成立させるものであるそれらが等価になること、同じようなことだと思えることの偶然と、それらが外へと切り離され作品がひとつのものになることが同時に起こっている。偶然をテーマにしているとだけ言うと、たとえば作家と同姓同名の美容師に作品に関わってもらうこと(他の展示作品の話)なども明け透けな感じがしてしまうだろう。それがたんなる偶然以上のものになるためには、それを見る者にまで乱反射させつつコントロールしないといけない。《Eclipse》の映像はフレームが黒くぼかされていて、暗闇に釣られたスクリーンの四辺がカチッと浮かび上がらないようにされていた。たとえばこれが端のブラーもなくディスプレイで上映されれば、ぼやけた背景から画面の端へ、そしてスクリーンの外の、われわれ鑑賞者がいる暗闇へとなめらかに繋がるグラデーションがなくなるので、作品の奥行きはとたんに圧縮されてしまうだろう。

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9月21日

2ヶ月くらいちまちまやっていて、ここ3日くらいでガッと進めた翻訳の担当している1章ぶんが終わった。大変だった。見たら28000字もある。およそ自分はこんな書き方をしないという文章で訳しにくかった。主張の型が4つくらいに固定されていて、それがA, B, C, D, A, C, D, B, C, A, D… となかばランダムに繰り返しながらとにかくたくさん術語が放り込まれる。友達の友達は友達で敵の友達は敵みたいな感じで概念どうしの関係を新しい概念の説明に使って、これ自体は哲学研究をするうえで必要な頭の使い方だと思うのだけど、あんまりそればっかりなのでやきもきしながら訳していた。でも一文一文訳すのには大変だけどふつうに読むぶんにはこれくらいの冗長性がちょうどいいのかもしれない。書くときにこれはまだるっこしいなあと思っていても時間が経って読み返すと速すぎてびっくりすることもある。書きやすいように書いて読みやすいように読めばいいと思うが、訳しやすいように訳していいかはその判断自体訳すことの一部なので難しいところだ。書いたり読んだりも一歩踏み込めば結局そういうことになるが。

デスクがなくなったらデスクワークも無くなるんだろうかと考えていた。座面が40センチで机が70センチ。

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9月20日

いつか気が向いたらここにドゥルーズ最速入門みたいな文章を書いてみようと思った。2000字上限で、経歴とか社会的、思想的な時代状況とか、他の哲学者との比較とか、あるいは彼自身の思想の変遷さえも触れずに、とにかく最速で最深部に達するためだけの文章。入門書ってたくさんあるけど、本だから長くしないとしょうがないし、でも本当は2000字くらいで掴めるか掴めないか、乗れるか乗れないかパッと判断してそれで入門ということでもいいと思う。原書を読むために入門書を読んで、それを読んでいるうちに原書を読みたいと思ったモチベーションがなくなっているということもよくある。ビビッと来たらすぐ原書という回路もあったほうがいい。それですぐ挫折してもそれはそれ。ということを寝ながら考えていて、そういうのをそれぞれの専門家に頼んで50人分くらい集めれば面白い本になるんじゃないかと思った。たぶん近代以降の哲学者に限定したほうがいいだろう。上述のルールを整えて明文化すれば競技性が高まるので書き手も腕が鳴るし、玄人筋の読み手もああだこうだ言って楽しいだろうし。ごちゃごちゃ言うくらいなら自分で書いてみろと言ってもいいくらいの分量だし、それが面白かったらそれはそれでいいことだし。でも2000字ってめっちゃ短い。まあいちど自分でやってみてまた考えよう。

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