9月2日

何も思いつかないので自分の本の宣伝でもしようかな。そういえば先日、日本の大学で博士号を取ったらしい中国人の方からメールがあって、『眼がスクリーンになるとき』を翻訳したいということだった。ありがたい話だが版元どうしで話さないとどうにもならないし、その人が中国の出版社をすでに見つけているのかどうかもわからないのでフィルムアート社の方に対応をお任せした。まあ難しいんじゃないかと思うがそういう人がいると知れただけでもとても嬉しい。

『眼がスクリーンになるとき:ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』は2018年の夏に出た本で、修士論文と5時間かけて『シネマ』を解説したレクチャー(動画)をもとにして書き下ろした本だ。その後の博士論文の苦労と比べても本当によく書いたと思う。

ひとつの鍵になるのは「イメージ」という概念だ。これをベルクソンの『物質と記憶』から引き継ぎつつ映画にぶつけることによって、そこにドゥルーズがどのような新しさを吹き込んでいるかということがひとつの軸になっている。『眼がスク』はドゥルーズ本というよりベルクソン+『シネマ』本で、ベルクソンについての議論が3分の1くらいを占めているんじゃないかと思う。ちなみに映画作品には一切触れないという方針を取っていて、いろいろ言われもしたが反論もした(書評へのリプライ記事)。

「イメージ」というと頭の中にある非物質的な像とか、絵や画像のような人工的な像を通常意味するが、ベルクソンはイメージを物質と同一視することを提案する。物質はイメージであり、イメージは物質である。実在論者は物質と頭のなかの非物質的な表象(クオリアと言ってもいい)をきっぱりと分けるが、それには脳というマジカルな回転扉が必要だ。入るときには物質だったものが出るときには非物質になっている。これに対してベルクソンは客観的に現前(presentation)するイメージと主観的に表象(representation)されるイメージの関係を、質的な変化ではなく量的な引き算によって説明する。知覚が成立するのは神秘的な変容によってではなく、現前する(不可視光線や不可聴域の音波も含む)イメージからわれわれの身体が生存に役立つ刺激を選り分けているからであり、脳−身体はたんなる(それ自体物質=イメージで作られた)フィルターだ。

重要なのはベルクソンはイメージ=物質の一元論を唱えているわけではないということで、イメージはまさに「物質と記憶」の二元論を形作るための下地になるのだけど、話が込み入ってくるので興味のある人は『眼がスク』を読んでみてほしい。第4章でそういう話をしている。

それで、ドゥルーズは映画はまさにベルクソン的な意味で「イメージ」だという発想から始めて『シネマ』を書いた。これは映画がリアルな世界を撮影する芸術だからということではない(それなら写真でいいし、アニメは映画ではないことになる)。そうではなく、映画における、要素を規定するフレーミング、一定の持続=運動を規定するショット、それらを組み合わせるモンタージュといった操作が、すでに世界を満たすイメージの運動を凝縮しつつ反復するから映画はイメージなのだ。世界が自然で映画が人工なのではなく、世界が「メタシネマ」で映画はそれを引き算することによって、世界が初めから映画であることを表現する。イメージが引き算されることで知覚が生まれ、ひとつの断面として世界全体と響き合っているように。

僕がいちばん面白いと思うのは、こうした議論が映画とそれについて哲学的に思考するドゥルーズとの関係にどのように跳ね返ってくるかということだ。批評の哲学的な条件と言ってもいい。超越的なポジションを取ると議論の内容と矛盾することになる。しかし私も世界の運動の一部だと言うことにそれを言うこと以上の意味はない。この問題にアプローチするのがもうひとつの鍵概念である「リテラリティ(文字通り性)」とそれが可能にする創造性の話だ。本書を読んで確かめてほしい(出版社リンク)。

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カテゴリー: 日記