9月3日

さいきんいろいろ読んで日本語について考えていて、「日本語の話」みたいな名前でインタビューと取材記と考察が一緒になったようなシリーズとか作れないかなと思っている。「ひるにおきるさる」で動かせればいいのだが、通話でインタビューはしたくないし、いずれにせよ1年くらいは置いておくことになるだろう。こういうことを考えているのは、ひとつには博論のなかでドゥルーズの言語論を取り上げて、でも僕らの業界でたいていそうなっているようにそこで扱われる言語は「言語一般」——それもあくまでフランス語を通して考えられた——で、それでいいのかと思ったからだ。とはいえ哲学をやっていると日本語の特殊性の扱いは非常に危険なので迂回したくなる。たとえば「哲学」はphilosophyでそれは古代ギリシア語の愛philiaと知sophiaの組み合わせで、哲学とは知を愛することなのだ、といった語源にもとづいた議論は哲学の頻出テクニックで、ハイデガーはその権化のようなものだ。良かれ悪しかれいわゆる大陸系の哲学研究者はこういうレトリックを内面化している。しかしこれを日本語について、「分かる」とは「分ける」ことであり、「理」とは「ことを分ける」ことなのだとか言い出すと、なんだかとたんにヤバい感じがしてくる。こういう「起源」への拒否感は重要なものだと思うし、それをヨーロッパに向けることも大切だと思う(ハイデガーに対するデリダの立場)。つまりヨーロッパ的な起源に対して日本的起源を立てるのではなく、いずれからも剥離してこそ哲学は(抽象的な意味で)脱植民地化できるだろうということだ。それで、なんだか思わぬ方向に話が進んでしまったが、日本語の話をするときに大切なのはその非−特殊性をどれだけ具体的に取り出せるか——理念化すると普遍言語主義になる——ということだと思う。いろんなアプローチがありうるがいま考えているのは機械と日本語という観点からそれをやることだ。

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カテゴリー: 日記