9月8日

梅棹忠夫の『日本語と事務革命』、武田徹の『メディアとしてのワープロ』を読んだ流れで、刊行されてからずっと気になっていたトーマス・S・マラニーの『チャイニーズ・タイプライター』(比護遥訳)をやっと読み始めた。すごく面白い。

たとえばフーコーは『知の考古学』で「言表(énoncé)」とは何かという話、というか、言表とはあれでもなくこれでもなく…… という話をするなかで、フランス語キーボードの左上にあるAZERTという並び(英語だとQWERT)は言表ではないが、それがタイプライターのマニュアルに印字されたものは言表であると言っている。言表が言表であることを決定するのは、言表の意味にも文法にも意図にも物理的支持体にも還元されない「言表的レベル」のなかでの諸々の言表の機能=関数(fonction)によってであり、「考古学」はその機能=関数を炙り出すことを目的としている。

たしかにマニュアルのなかでの「AZERT」という言表には文法も何もないが、それを取り巻く言表によって特定の機能を与えられる。しかしAZERTというキーボード上の並びも同様に、人間の手指の構造やフランス語における各アルファベットの出現頻度といった、非言表的な、フィジカルで統計的な力場のなかで実現されたものだ。言表をその他のもの(論理的ないし文法的構造や主体の心理)の影としてでなくそれそのものとしてポジティブに見ることができるのなら、言わば「言表に強く関わるがそれ自体は言表ではない技術的レベル」にあるもののポジティブな探究も可能なのではないか。

『チャイニーズ・タイプライター』で「技術言語学(technolinguistic)」と呼ばれるのはそのようなレベルの探究だと思う。近代中国語の歴史は漢字の簡体字化、中国語の口語化、識字率の向上といった文化的なレベルでばかり語られてきたが、これらはいずれも中国語の活字化やタイプライターやワープロの開発に寄与するものではない(日本語もそうだろう)。マラニーが明らかにするのはむしろこうした技術的なものが言語にどのように食い込み、そこでどのような葛藤や折衝が起こっており、そこに近代なるものと中国のどのような関係が浮かび上がるかということだ。

興味深いのは彼が同時に、いわゆる「モノの歴史」(顕微鏡/コーヒー/iPhoneはいかに世界を変えたか?)に見られるような、特定の文化的技術的な産物を社会全体のパラダイムシフトに結びつけるタイプの技術決定論を退けていることだ。しかしそうなると技術的なものと言語的なものは結局どのような関係にあると言えるのか。もういちどtechnoとlinguisticのあいだにスラッシュを入れるとするなら? ということを考えながら読んでいる。

人名索引にフーコーもラトゥールもドゥルーズも出てこないが、これはきわめて哲学的な、技術と文化、理系と文系、物体的なものと非物体的なものの関係をどう考えるかという問題だと思う。マラニーから哲学的立場を炙り出すとするならフーコーとドゥルーズの違い、というか、ドゥルーズがいかにフーコーを読み替えているかということがポイントになると思うのだけど、書き始めたら倍の長さになりそうなのでこれについてはまた気が向いたら書こう。まだ『チャイニーズ・タイプライター』読み終わってないし。

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カテゴリー: 日記