9月14日

彼女に学部のときどんな哲学の講義を受けていたかと聞かれて、哲学の授業は講読しか出たことがないと思うと答えた。上野修のデカルトとラカンの主体性についての講義はいちど出たきりでやめてしまったし(たぶん午前の授業だったのだ)、他にどういうものがあったか思い出せない。シラバスには「『純粋実践理性批判』を読むVII」とか「『エチカ』を読むIV』とかあって、そういうのは哲学科以外お断りという感じだったし、ドイツ語もラテン語もできないので出られないなと思っていた。所属先の美学か、美術史とか演劇学とかの授業で専門の単位を取ったと思う。

地獄のような臨床哲学科の哲学対話の授業にも出た(友達がいなくて寂しかったんだと思う)。靴を脱いで入る薄いマットが敷かれた保育園みたいな教室に車座になって「対話」をするのだが、いろんなルールがある。スーモみたいなボサボサのボールを持っている人だけが話すことができて、それ以外の人は手を挙げてそのボールを受け取るまで口を開くことができない。誰かがひとしきりしゃべると、それについて賛成か反対かで手を挙げて、反対の人のうち誰かがボールを受け取って意見を述べ、もとの人が応答し、それについて賛成か反対かで挙手をし……というのをえんえん繰り返す。反対から反対へと遡るばかりなので話が一向に前に進まず、むしろそれに忍従することが何かのトレーニングだと考えられているのかもしれないけど、結局どうなるかというと、どこかで疲れて、あるいはひとりで意固地に反対することが恥ずかしくなって、無難なところで話が終わるのだ。あまりに馬鹿らしい。ボールが回ってきたときに賛成でも反対でもないときはあるし、センシティブな話題であれば嘘をつくことも避けられないという話をすると、この場では全員が哲学者で、信頼し合わないと話ができないのでそういうことは許されないと言われたので、じゃあ僕は哲学者じゃなくていいと言って出て行った。カッコつけてるみたいな話で恥ずかしいのだけど、本当に腹が立ったのだ。

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カテゴリー: 日記