10月4日

友人がLINEで濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』が面白かったと言っていて、まだ怖くて見れてないんですよねーと返して、劇場情報を見るともう近くではみなとみらいの映画館でしかやっていなくて、それもあと3日くらいで終わってしまうのですぐ出かける準備をして見に行った。怖いというのは、村上春樹は10代のときにあまりに読みすぎて村上作品と10代の気持ちが切り離せなくなっていて、それを再確認させられるのが怖いということがひとつ。批評とかを書くようになったのもその抑圧のうえに成り立っていることだと思う。もうひとつはこれと関連して、作品に素直に向き合えないんじゃないかということ。

素直に向き合えたかどうかはともかく、作ることと見方の提案がひとつになっていて、奇抜な作りなのにもかかわらず3時間自然に身を任せることができた。虚実をまたぐ様々なレイヤーを導入しつつもほとんど幾何学的な対応関係の網の目がめぐらされている。原作を読み返すと主人公の家福が、演じること(仕事に限らず)から現実に戻ってきてまた演じてを繰り返す、しかし完全に同じところに戻ってくることはないと言っていて、そうしたズレつつ跳ね返る関係が映画でも動きの反復によって表現されていた。後ろから抱きしめる身振り、舞台袖での憔悴、ドライバーのみさきが不意に画面から消えるふたつの場面(犬とフリスビー)。

僕がまだどう考えていいのかわからないのは、高槻とみさきのキャラクター造形で、でもそれはやはり村上的なものとの距離で気になっているだけかもしれない。高槻は『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田君(彼も俳優だ)だと考えれば映画で付け加えられた彼の自身の空疎さへの恐れと破滅も、村上的なモチーフの圏内だと言えるが、それは本当に必要なことだったのかとも思う。もちろん原作に添えばいいという話でも、みんな幸せにならないといけないという話でもない。

わからないものはわからないのだけど、これはみさきについて気になっていることと繋がることかもしれない。彼女がシーンに登場するきっかけの多くは仕事を終えた家福を車の前で待っているところで、意地悪な見方をすれば移動型の主婦みたいなものではないかとも言えるのだけど、三浦透子のそっけない演技が素晴らしく、そういうスレテオタイプを跳ね除ける力があったと思う。他の俳優だったらなかなかこうもいかないのではないか。

しかし、最後の場面ではみさきはなぜか韓国にいて、スーパーで買い物をして車に乗り込む。中に犬がいる。犬の登場は二度めで、最初のとき彼女は夕食に招かれた家で画面外の犬を撫でに不意に椅子を立つ(彼女が積極的に他者に関わる唯一の場面)。車で待つ立場から、車に犬を待たせる立場に変わっている。マスクを外す(ここだけ現代という設定になっているのだろう)と左頬にあった傷が消えている。犬がシートのあいだから顔を出し、彼女がそれを撫でる。家福の姿はなく、エンドロールに入る。詳しい経緯は描かれていないが、彼女はどうやら母の死を乗り越え、車を手に入れ、犬を乗せている。直前で描かれた家福の救済(ソーニャに救われるワーニャとしての)で終わるという選択も十分にありえたはずだ。

高槻の破滅と、みさきの自立(?)。破滅は描かれなくてもあっただろうし、自立も描かれなくてもあっただろうという気がする。一方は家福の救済を際立て、他方はその特権化を打ち消す。しかしこれは本当に必要なことだったのだろうか。やっぱりわからないのだけど、これは「物語」をどのようなものとして考えるかという問題だと思う。思いのほか長くなってしまったけど、『ドライブ・マイ・カー』は、ここまでやれるのかと、僕が村上作品に感じてきたつっかえを吹き飛ばしてくれるような作品だった。

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カテゴリー: 日記