10月14日

『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』(鼠三部作)、『ウォーク・ドント・ラン』(村上龍との対談)、『カンガルー日和』、『中国行きのスロウ・ボート』、『蛍・納屋を焼く・その他の短編』(短編集三つ)、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(長編)、『回転木馬のデッドヒート』(短編)と、網羅的とも言えないし短編の初出とかを考えると厳密に刊行順でもないが、ここ1週間ほどで村上春樹のデビュー(1979年)から6年ほどのあいだに書かれたものを順に読んだ。

村上春樹を読むというのは僕にとって、前に「精神的実家」に帰るようなことだと書いたが、それ以上退行しないための自前の岩(精神分析家が直面する分析のデッドロック)のようなものであって、物語がそのように機能するのはあらためて不思議なことだと思う。おそらくそうした機能は、春樹を読んで春樹について書くことはふさわしいことではない感じがするという危惧と深い繋がりがある。春樹を読んで春樹について書くより、春樹を読んでホテルマンになるとか、タクシー運転手になるとか、漁師になるとか、そういうことの方がずっとふさわしいことであるような気がする。これも不思議なことだ。

そしてこのふたつの不思議さはやはり1枚のコインの裏表で、退行は退行であって、春樹を読んで春樹について書くというのはあまりに容易にその退行への固着を招いてしまうことだと思う。もちろん、書くことで外に出るという考え方もある。でもそれはあくまでひとつのオプションであって、それをオプションに留めることの倫理を壊さずに書くというのは、やはりとても難しいことだと思う。

投稿日:
カテゴリー: 日記