11月26日

前々から大和田俊と一緒に行こうと話していたのだが、その話が流れに流れて、2ヶ月くらい経ってようやく佐々木健の個展「合流点」を見に行くことになった。鎌倉のはずれにある彼の祖父母が住んでいた家で開催されている。鎌倉駅で待ち合わせをして、10分くらい遅れると大和田さんから連絡があって、オーケーですと言ったら僕が大船で乗り換えるべきところを通り過ぎていて20分くらい遅れた。駅の近くの食堂で昼ご飯を食べて、バスで10分ほど山に入ったところに会場がある。玄関の脇にある応接間と20畳ほどの居間とそれに沿った廊下とトイレ、たくさん花が咲いている庭のあちこちに絵画が展示され、それとは別に2階の二間が「常設展示室」になっている。展示の概要について作家の説明を引いておこう。

「神奈川県の障害者施設で殺傷事件発生の一報をタイムラインで見かけたあの日、兄が殺された可能性で目の前が真っ暗になった。徐々に明らかになる情報から施設は同県内の他の入所施設である事がわかったのだが、あの日、兄が殺されなかったのはいくつかの偶然が重なった結果に過ぎないという考えが消えることはないだろう。月日は流れ、繰り返し夏がやってくる。それまでに描いてきたあれこれと、それから描いているあれこれを神奈川県鎌倉市のはずれ、私たち兄弟の祖父母がかつて住んでいた古い民家と、庭と、絵画から成る展覧会というかたちで公開したいと思います。」(佐々木健のサイトより)

「合流点」とは、「いくつかの偶然が重なった結果」のことを指すのだろうか。それは最初、その脆さへの恐怖として画家を捉えたのだろう。その恐怖の経験は居間の奥側に設置された《相模川》と《観覧車》によって再構成されている。このふたつの絵画には、津久井やまゆり園がある場所からそれぞれ西と南を眺めた風景が描かれており、その位置関係が展示によって再現されている。つまり絵の「こちら側」がやまゆり園に相当する場所となるのだが、会場に掲示された作家のテクストは、近代絵画が「崇高」を見出した風景のうちに障害者が不可視化され置き去りにされてきたのではないかと問うている。

しかしその問いは作家自身に向けられたものでもあり、兄が収集した10円玉や電球を描き、兄の描(書)いた路線図や計算式をキャンバスに模写すること、そしてそれをいま「絵画」と呼び、ここに展示することは、絵画を通して家族の営みの「合流点」として家を捉え返そうとする実践だと感じた。応接間には兄弟の母が施設のスタッフのために作った、兄の性格や好きなもの、嫌いなものが書かれたノートや彼が書いた楽譜や宿題の日記が綴じられたファイルが置かれていて、ブラウン管のテレビからは父が80年代に撮影した兄弟の子供時代のビデオが流れている。ソファに腰掛けてファイルを読んでいるとエプロンを着けた佐々木さんがお茶を出してくれて、庭ではお母さんが水やりをしていた。僕はたまたま居間を見ながら応接間が空くのを待っていたが、いちおうの順序としては応接間を見てから居間を見るわけで、こうして恐怖からの想起による恢復というストーリーをこの展示に見るのは、間違いではないにせよあまりに一面的かもしれないと思った。そのふたつは切り離せないだろう。それが「合流点」なのかもしれない。私はあまりに弁証法的だろうか。うまくその場で感想が言えなかった。僕はあまりに弁証法的でしょうかと聞くわけにもいかない。すごくよかったですと言って、絵の具のこととか設営のこととか、細かい話を聞いた。トイレを借りると壁にお兄さんが描かれた信号機の絵を模写したものが掛けられていた。柱には相田みつをの日めくりカレンダーが掛かっていて、11月24日になっていた。お兄さんが来るたびにめくっているらしい。

番外編。大和田さんが人と喋っているのを聞くと面白い。自分のことについて話すときに「〜をどう考えるかってことを考えてるんだなって思った」としきりに言っていて、頭がいいのも考えものだなと思った。

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カテゴリー: 日記