12月12日

数日前座談会に参加してほしいという依頼があって、しかも週明けにはもう収録だという話だったが、今年の現代美術の動向を振り返るという企画で、そういう状況論的な話題で呼ばれることってこれまでなかったなと思い引き受けることにした。とはいえ喋り仕事はとうぶんやっていないし、ふだんそういう真面目な話をすることもないので、リハビリ兼ブレストにと思って昨夜ツイキャスで1時間半ほど喋ってみた。朝それを聞き返しながらメモを取ってアイデアを整理して、あとは別の原稿を進めた。

YouTubeを回遊していると、コメント欄で文末に(伝われ)とか(語彙力)とか書かれているのが目についた。ここ最近よく見るようになった表現だと思う。恥も外聞もない。というか、恥も外聞もなさを、わかってやってますよと先取りせざるをえない、それ自体恥ずかしい挫折にこそ共感を求めているみたいだ。というか、そうした屈託としてしか自分の内面の存在を確保できないのかもしれない。文面を超えたものが私のうちにある、しかしそれは文面を貶めてみせることでしか仄めかすことができない、みんなもそうでしょう、と。気の利いたことを言えたら蒸発してしまうような内面にどんな意味があるんだろう。僕は単純に文字数の問題だと思う。2万字書いて最後に(伝われ)と書く人はいないだろうから。そうなったら意味が内面にあるか文面にあるかなんて誰も気にしない。でも彼らが求めているのはそういうことではないんだろう。コメントじゃなくても握力計とか血圧計とかでいいのだ。それでも(握力)とか言うのだろうが。

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カテゴリー: 日記