1月12日

コンサートのレビューについていろいろ考えているうちにヒトの発声器官の進化が気になってきて、『ピダハン』で有名なエヴェレットの『言語の起源』を喉に手を当ててまーまーまーとかぱーぱーぱーとか言いながら読んだりして、母音のフォルマントの仕組みと聴覚のチューニングの循環関係とかは面白かったけど、彼は言語にとって現生人類の発達した発声機構は必要条件ではないという立場なのもあり、それはそれでわかるのだが、かゆいところに手が届かない感じだった。結局なんで二足歩行になったかわからないと咽頭が伸びた理由もわからないのだと思い、島泰三の『親指はなぜ太いのか——直立二足歩行の起源に迫る』をキンドルで買って、これが思いのほか面白くて一日かけて読んだ。

もともとマダガスカルでアイアイの調査をしていた著者は、アイアイの針金のように細長い中指は、ラミーという種の胚乳をほじくり出すための、パフェスプーンみたいなものだということを発見する。ネズミなみに鋭い前歯は、小ぶりなヤシの実のような硬いラミーの上部を割るのに役立っている。サルのなかでも際立った特徴をもつアイアイの形態は、その主食との関係から理解することができるということだ。ここから彼は「棲み分け」ならぬ「食べ分け」としてニッチの概念を再定義し——たとえば今西錦司は形態への着目がないと批判される——主食を中心に生態と形態をセットで考えることの重要性を指摘する。そしてそれはとりわけ霊長類学においては「手と口連合仮説」として具体化され、彼はメガネザルからニホンザルからゴリラまで、さまざまなサルの手と口の形態をニッチとしての主食との関係で説明する。

ニッチを見つけるということは、他の誰も食べないが安定的に供給されるものを見つけるということであり、一般的に手が器用なサルのニッチは手と口の形態と生態から説明される。したがって絶滅した類人猿の形態からその主食としてのニッチを特定できればその生態をも類推することができる。しかし直立二足歩行という特殊な形態は、いったいどんなニッチに対応していたのか。この問いへの回答が驚くべきもので、ほんとにびっくりした。それが何なのかは読んでもらうとして、とにかく手と口連合仮説が面白いのは、ひとつには生態−環境という棲み分け仮説的な、点としての個体と広がりとしての場の組み合わせに替えて、主食−形態(−生態)という対物的な関係を優位に置いていることだと思う。そしてそれはとりわけヒトの進化において、手が地面から解放されて道具を使えるようになり頭をゴツい頚椎で支える必要もなくなり脳の容積が増え賢くなった、というような、結果論的で脳中心主義的な説明に対するカウンターになる。手は解放されたのではない。地面や樹の枝とは違うもので塞がっていたのだ。

とはいえ本書の分析はアウストラロピテクスまでなので、裸になって言葉を喋るところまでいっていない。著者の出自も含めて興味深いので他の本も読んでみよう。どんどんレビューと関係なくなってしまうが。

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カテゴリー: 日記