日記の続き#17

この4月から立命館で非常勤講師を始めて、それで毎週京都に行っている。担当しているのは講義ではなく演習で、学生の発表を聞いてコメントするのが主な仕事だ。僕は学生として阪大文学部の美学と横浜国立大の都市イノベーション学府に通ったのだけど、共通するのは「イロモノ」というか、美術史だったら印象派とか哲学だったら近世とか、そういう王道の研究ではなくサブカルチャーや現代思想を含めたマイナーな研究をしている人が多く集まっていたことだ。日本では「表象文化論」がそういう傾向を概括する呼び名として一般的になっている。それで、僕が今担当しているのも立命館の先端研の表象領域の演習で、やはりいろんなジャンルの発表を聞くことになる。全体的な印象として思うのは、マイナーなことを地道にやってもしかたないよなということで、というより、これが古式ゆかしい文学部的なものに比してマイナーなものであるという意識がそもそもないのかもしれないということだ。確かに表象文化論的なもの、カルチュラル・スタディーズ的なものはマイナーなものを地道にやることを理論的・制度的に支援してきたが、第一にそういう枠組み自体が危うくなってきているし、第二にそうは言ってもメジャーなものに対する「カマし」があってこそのマイナーなのではないかと思う。フェルメール研究であれば絵から消されたキューピッドの復元は大事件だが、そんな「些事」が研究に値することの奇妙さを、自分のやっていることに跳ね返して考えることも必要ではないか。ということをこないだ発表を聞きながら考えていて、でもこれは今言うことじゃないなと思っていたのをさっき思い出してここに書いた。