日記の続き#24

東中野にアラン・セクーラとノエル・バーチが作った『忘れられた空間』を見に行った。セクーラとバーチの名前は映像学で知っているだけで、実作者でもあることもふたりが共作していることも知らなかったのだが、見ようと思ったのはふたりの名前よりこの作品がコンテナ物流を扱った映画だからだ。去年書いた大和田俊個展評は「コントラ・コンテナ」というタイトルで、コンテナによる物流の規格化に代表されるような均質な空間性に抗うものを大和田の作品に見るというものだった。そのときから現代的なロジスティクスのありかたには興味があって、その延長線上に昨年末の座談会で話した「置き配」的なものへの関心があった。『忘れられた空間』についてはまた気が向いたら書くかもしれないが、情報量がとても多かったのでとりあえず今日はひとつだけ。ナレーションではコンテナ物流の普及はテクノロジカルな発展だけでなく「便宜置籍船」という法的な枠組みが条件となったと説明される。これはペーパーカンパニーならぬペーパー国籍を船に与える(こないだスエズ運河につっかえた船を含めよく「パナマ船籍」という言葉がニュースに出てくるが、これがそれだ)ことで、実質的な船主の国の課税や法規制を逃れることができる。船そのものがタックスヘイブンになっていて、安く賄える船員が「自国」から調達される。いやはや……と思ったが作品は奇妙に楽観的なラストで、そのうえわりとナイーブなオリエンタリズムが露呈していて、いやはやと思った。