日記の続き#57

日記についての理論的考察§11各回一覧
今回は歴史について。日記の歴史というと日本は日記文学の国だということで、『土佐日記』とか『更級日記』とか、そういう平安期の日記がいちばんに想起されるだろう。でも僕としてはそういうものより、近代以降の「制度」としての日記に興味がある。ここまで書いてきた〈イベントレスネス/イベントフルネス〉と〈プレーンテクスト/メタテクスト〉というふたつの軸が直交する地点にあるものとしての日記の(二重の)両義性は、日記の制度化と切り離せないだろうからだ。
さて、僕もまだ勉強を始めたばかりなので、今回はいわゆる「サーベイ」(いつもバカみたいな名前だと思う)の報告みたいな感じになる。近代日本と日記というテーマについては田中祐介の2冊の編著、『日記文化から近代日本を問う』(笠間書院)と『無数のひとりが紡ぐ歴史』(文学通信)が必読だろう。とりわけ2冊ともに寄稿している柿本真代の論文は、明治期の小学校教育と日記の関係を論じたもので僕の関心に近いものだった。そこからさらに遡って、柿本のいずれの論文でも基礎的な研究として参照されている高橋修の「作文教育のディスクール:〈日常〉の発見と写生文」(『メディア・表象・イデオロギー:明治30年代の文化研究』、笠間書店所収)という1997年の論文を手に入れて読んだ。
この高橋の論文では、小学校における作文が、明治30年代つまり20世紀のド頭において日常を「ありのままに」書くことを称揚し始め、それは日記という形式が一般化したことにも表れていると論じられる。日記はいわゆる規律訓練型の権力を家庭での生活にまで浸透させると同時に、予備軍としての「小国民」の教化に寄与する遠足・運動会を題材とさせた。日記は私生活と国民意識の蝶番になっていたのだ。同時期には正岡子規の「写生文」が文学的なムーブメントとなり、雑誌『ホトトギス』では読者から日記が寄せられ、子規はコメントとともにそれを掲載した。高橋は日記の「イデオロギー装置」(アルチュセール)としての側面と新たな文学的表現の可能性という側面を分けて考えているようだが、そんな簡単な話なのか、というのがいまのところ手にした問い。