日記の続き#64

書店で『日記〈私家版〉』の刊行をきっかけにした、「日記も哲学も同じ散文」というテーマの選書棚を作ってもらえることになって、喜び勇んで30冊ほど選んで、すべてにコメントを付けますと言って、もう本は選んでいるのだが、まだコメントが書けていない。考えてみれば30冊だと200字ずつ書いても6000字の文章を書くことになるわけで、めちゃめちゃ大変なのだ。自分からやりますと言ったことだからやんないとしょうがないし。それも本の順番でコメントの内容もなんとなくひと繋がりにしようとしていて、これで全部うまくいくのかわからない。ともあれ今日は他に書くことも思い浮かばないので冒頭の2冊ぶんをここに載せておこう。

福尾匠『眼がスクリーンになるとき:ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』、フィルムアート社
いきなり拙著で恐縮なのだが、同じ人間のやることなので、ドゥルーズ『シネマ』を通して考えたことと日記のあいだには繋がりがある。『眼がスクリーンになるとき』の第5章では、思考と時間の関係についてのドゥルーズの議論に取り組んだ。彼は、ものを考えるというのは、今日の次に明日が来るという単線的な時間から抜け出して、歴史が形作る地層から新たな断面を切り出すことなのだと述べた。そこでは非時系列的な時間が編み上げられる。ところで、日記を書いているときのいちばんのワンダーは、「今日」のことを書いているはずなのにいつのまにか違う時間に迷い込んでいるときである。

柴崎友香『ビリジアン』、河出文庫
この小説にはそうしたワンダーが溢れている。ある少女の10歳から19歳までの日常が連作の短編で切り出され、そのなかで彼女はしばしば「いつか」の自分に出くわす。思い出すという行為がそのまま外界に投げ出されてあるようなこの小説の世界は、私「が」過去「を」思い出すというときの助詞に宿っている方向性を撹乱する。その意味で彼女は鏡の国に迷い込むアリスに比せられるだろう。過去が私を思い出す。私を過去に思い出す。思い出すが過去を私に。