日記の続き#80

ここ数日「方言のたやすさと難しさ」というフレーズがときおり頭に浮かぶが、それをどう触っていいのかわからない。春から毎週新幹線で京都に行っていて、僕の地元は岡山だからもっと先なのだけど、新横浜と名古屋のあいだ、名古屋と京都のあいだの景色の大部分を占める、ものすごく田舎というわけでもないが、田んぼと民家と工場と学校しかないような匿名的な風景に、僕はこういうところから来たんだと思う。いずれも岡山を通らないことは同じだし、景色の構成要素もそんなに変わらないだろうが、これが東北新幹線だったらそうは思わないだろう。東海道と山陽本線は南北を海と山に挟まれて東西に主要道が伸びているという点で同じだが、東北新幹線は北に向かって伸びていて道に対する太陽の軌道が違うからだ(この差は東北に向かう道中の景色のジャメビュ的な印象を生む)。ともかく、2時間の行程の1時間半くらいを占めるそうした退屈であまりに身近な、しかしたんなる観念的な関係しかないそういう景色を見ると、そこがどこだか知らないのにこういうところから出てきたんだと思う。方言のたやすさと難しさは、地方のローカリティ(狭さ)と「地方」のマジョリティ(広さ)に対応するのかもしれない。