日記の続き#86

6月はごちゃっとしたので7月はがんばり月間にしようということで、今日は共訳本と博論本の作業を進めた。しかし「がんばる」というときに、何時までにちゃんと起きようとか、一日何時間は作業に充てようとか、今月中に何章まで書こうとか、相変わらずそういうスケールでしか考えていないことに気がついて、なんだか自分で自分にがっかりしてしまった。それはきわめて小学生的な発想で、実際われわれはそういう発想を小学校で訓練されたわけだが、それに対する裏切りとその後悔とセットで20年ほども後生大事に抱えてきたのだと思うとぞっとする(言うまでもなく日記もその延長線上にある)。がんばりについての新しいイメージが必要だ。千葉雅也さんが「書かないで書くこと」として、アウトライナーでのドラフト作成を代表とした実践を紹介したことは、そうした刷新のひとつだと思う。全体の整合性を気にして立ち止まる前にとにかく思いついた端から書くこと、白紙と差し向かう執筆というイメージを脱神秘化することは、ここ数年の彼のテーマでもある「世俗性」と響き合ってもいるわけで、たんなる仕事術・創作術にとどまらないものがある。彼を横目に見ながら——同時代の面白いひとを横目に見ながら自分の問題を考えられるのは大きな喜びだ——考えるにつけ、主体性の調達ポイントをどのように配備するかということが問題なのかもしれないと思う。というのも、たとえば洗濯機を回したら干さなきゃいけないし干したら畳まないといけないとか、ご飯を作ったら食器を洗わないといけないとか、生活のなかの諸々のサイクルには無数の重い腰を上げるポイントがあり、大小のそれらを後回しにすることで頭のなかにいろんなキャッシュが溜まっている状態になり、わかりやすいところでは部屋が散らかったり、コンビニのご飯ばかりになったり、仕事に身が入らなくなったりする。セルフネグレクトというやつだ。しかしそれはセルフディシプリンの失敗なのだろうか。一面ではそうだろう。しかし散らかるに任せるのも自動化だが片付けの理想も自動化だ。つまり、キャッシュをチャラに(白紙に)すればよいというのではないし、むしろ白紙への焦燥がネグレクトを呼び込んでいる面もあるはずだということだ(実感としては確実にある)。つねにすでに多かれ少なかれ散らかった状態との特殊な付き合い方があるとすればそれはどういうものなのだろうか。ひとつの可能な回答は、そもそもわれわれってそうしてるじゃんということだと思う。答えは現場にあり。これも世俗性か。