日記の続き#87

なんとなく前回の続き。こないだ開催された大和田俊とのトークイベントの打ち合わせのときに、大和田さんが僕がいつかつぶやいた「僕も困ってるし、ドゥルーズも困ってるし、それを見せてもいいんだと思えるようになった」というようなツイートをなぜだか痛く気に入っていて、その話をしたいと言っていたのだが、結局本番でその話題は出なかった。でも内容的には彼はしっかり困っているところを見せていて、むしろ僕のほうが学ぶべきものがあるなと思った。答えのないものが大事とかみんな口では言うけど、それは答えのなさに困っているところを見せないための方便に容易にすり替わる。哲学研究でもドゥルーズはこれこれの問題に取り組んだとか、こういう紆余曲折を経てこういう解答にたどり着いたとかそういうことが、書かれる対象からも書く私からも困っているという次元をスキップさせる。もちろん困りっぱなしでもしょうがないわけだがそういう純粋主義に絡め取られると書く側もしんどいし、読む側はどこに自分を引っかければいいかわからないし、ということになる。書いていて何が昨日の続きなのかわからなくなってしまったが無理矢理引きつけつつ図式化すると、白紙→完成のプロセスの単線性においては困っているということがその克服に対してつねに従属しているのに対して、不可算な困り——最近よく見る「困りごと」という言葉は困っているということを可算的に扱おうとしていてダメだと思う——の集積のほうに何かリアルな手触りがあるんじゃないかということだと思う。多動的なんだけど何をしているのかわからない感じ。まさに大和田さんの作品にはそういうところがある。彼が「石は何度石になったのか」と言っていてすごく面白いなと思った。何度目かの石として書くこと。