日記の続き#95

日記についての理論的考察§14各回一覧
先日書店B&Bで詩人の鈴木一平さんとトークイベントをした(アーカイブ)。そのなかで話したことのひとつについて書いておこう。§11で日記の歴史的な制度化と文学的な表現を分けて考えることなどできるのだろうかと問うた。制度順応的なダメな日記と芸術的ないい日記を分けることなどできるのか、ということだ。僕としては日記の実相は両者が絡み合うところにあると考えているのだけど、ここではこれを仮説的な前提として、それが「表現」というものの意味にどのように跳ね返ってくるのか考えてみよう。ひとまず逆から考えると、政治と芸術の分割は表現の意味を「自己表現」なるものに狭めると言えると思う。それが政治的価値をもつとしてもあくまで私的なものの公的な表明によってであり、つまり、そこではつねに内面性と外的世界の対立が含意されている。それに対して制度と表現が骨絡みになった状態を出発点として考えるにあたって、ドゥルーズの「芸術は動物から始まる」というテーゼを紹介した。彼は動物の縄張り作りと身体表面の色彩や模様をひと繋がりに考えていて、それはそこから想定される機能——攻撃や求愛——には還元されない純粋な表現なのだと述べた(誰もシマウマの模様を内面性の発露だとは思わないだろう。これが「動物から始める」ことの大きなメリットだ)。ここで表現は内面の表出ではなく、むしろ新たな表面の発生であり、そこから内部と外部の対立が生まれ、そこに諸々の機能が結果として宿る。だからこそ彼は人間の芸術を考えるにあたっても、暗闇で子供が歌う鼻歌や、隣家のラジオをうるさく思う主婦といったおよそ「芸術未満」の例から出発する。一方でそれはテリトリーに関わり、他方でそれは現存する諸々の連関のネットワークからの剥離に関わっている。スキノピーティスという鳥は、ある領域に落ち葉を集めておき、それを後日裏返すことで他の地面とは色の違う平面を作るが、そこで落ち葉はある意味で「落ち葉」であることから剥離し「フロア」となる。このような剥離は日記につきものである。というのも、書いたときには当たり前のことであったセンテンスの並びが、時間がたつと不可解なジャンプに溢れており、その「向こう側」にいるかつての自分が不気味で異質な表現主体として現れてくることはままあることだからだ。表現は内面の外化ではないし、日記は備忘録ではない。表現とはそれを作ったものから作られたものが剥離することであり、日記は忘却の発見による制度の寸断である。