日記の続き#103

直近3日間の日記には何か共通の関心があると思う。ひとことで言えばそれは整合性と連続性の関係ということになると思う。われわれはなるべく世界を整合的に把握する。コップを持ち上げるたびに、それが床に向けて引っ張られているようだと思わないのは、手にかかる抵抗をあらかじめ切り取られたその個体の重さとして登録しているからだ。見慣れたコップを手に取ろうとしてそれがびくともしなければ、私はまずコップがテーブルに釘付けになっていると感じるだろうし、コップの重量が20キロになったとは思わないだろう。つまり、個体の重さとして処理できる閾値を超えると不動性として解釈されるのだ。巨岩は重さと不動性のトワイライトゾーンに位置しているからこそ喚起的になる。山を重そうだとは思わない。認識の整合性とは、重さは重さ、運動は運動、硬さは硬さとして、それぞれの個体に安定的に登録されていることを示している。それは主体と対象のあいだのある種の協定のようなものであって、私はコップに1キロ以上の重さになることを認めない。その意味で連続性は認識のセーフティネットであり、整合性の破れについてのメタ的な協定のようなものだ。コップの重さが机+コップの重さになるのは、コップが20キロになることより机とコップの総重量が20キロになることのほうが自然だからだ。咄嗟の言い訳としての連続性。それは存在論的な連続性とはいちど区別して考えてみる価値があると思う。(2021年12月23日