日記の続き#106

ここのところさすがに生活リズムがめちゃくちゃだ。今日は1時から打ち合わせがあるので12時くらいに起きたけど、夕方にまた眠くなって9時くらいまで寝ていた。打ち合わせはなんだかすごく大きい企業が相手で、zoomでしたのだが、まず向こうに大人が3人もいたし、ただトークイベントに出るだけなのに事業全体を説明するパワーポイントまであって、こっちは寝起きだし、面食らってしまった。まあこれくらいが社会一般の社交の条件なのだとしたら、そのほうがまともなのかもしれないとも思う。メール一通でやるかやらないかみたいな、打ち合わせと言ってもルノアールでお茶するだけのものばかりなのがおかしいんだろう。

別の話。博論と博論本のいちばん大きな違いは、前者の第5章になったベルクソン『物質と記憶』で「私」という言葉がどう使われているかを分析した論文を外して(論集のほうに入れることにして)、思弁的実在論とか否定神学批判とか、現代思想の世界でここ20年くらいのスケールで起こった潮流のなかに自分のやっていることを位置づける文章に入れ替えようと思っているところだ。といってもまだ書いてはいないのだけど。ともかく、その課題がここ半年くらい頭の片隅でぐるぐる回っている状態で、今日ふと、千葉雅也さんがかつてグレアム・ハーマンの文章にはサーカスとかグレープフルーツとか暴風雨とか名詞が入り乱れていて、そこでオブジェクト指向存在論がある種そこでパフォームされているのではないかと指摘していたのを思い出した。でもそのオブジェクトの「任意さ」は、文法書の例文の任意さ、あるいはチョムスキーが「色のない緑の観念が猛然と眠る」というときの、純粋な形式として文法を示すためだけにしつらえられた任意さと同じなのではないかと思った。任意の項と、その任意さによりなおさら確かなものとなる構造。