日記の続き#110

日記を書きやすい時期と書きにくい時期がある。面白いのはこれがべつに気分の浮き沈みと一致しているわけではない——自覚できる範囲では——ことで、何か原因があるというより、僕のなかに日記の書きやすさとしてしか現れない何かしらのリズムがあるんじゃないかとすら思える。書きやすいのはどういうときかというと、日中からちゃんと日記センサーに引っかかったものをその場で文としてある程度頭のなかで再生できているときで、書きにくいのは、出来事とともに日記のことが頭をよぎることはあっても、それをたんなる出来事としてしか処理していないときだ。あとから書く段になるとそうしたもののたいていは忘れられているということもあるし、たとえ覚えていても、それは何か、とても心許ないものに思えて書こうと思えなくなる。今がまさに書きにくい時期なのだが、そういうときはどうするかというと、いくらしょうもないと思うことであってもとりあえず書き始めてみるという一歩が要求される。これは結構キツいことだ。たいてい書いてみると何かしら報われる部分はあるとしても、それでも。スーパーで魚を手に取るときみたいな気持ちになる。そりゃ料理すれば美味しくなるのは知っているが、俺はこの濡れた死体を買うのか、というような。でもこればっかりは意思でコントロールできるものでもないし、こういう苦悩は後になると自分で読み返してもトレースバックできないので、本当にどこにも残らないのだ。だとしたらいちどくらいこうして正直に書いておくのもいいことかもしれない。何にとっていいのかはわからないが、それでも。