日記の続き#44

今日は髭剃りの話。髭はいつも風呂で剃る。そのほうが剃ったあとシャワーで流せて気持ち悪くないから。人に会ったりする日だけ出かける前にあらためて洗面所で剃る。今日T字剃刀の替え刃を買った。8つで4000円もしてバカみたいだ。電動シェーバーはいちど買ってしまえばずっと使える。でもあの、どのブランドのものも一様にカブトムシみたいに黒くてずんぐりしたフォルムが許し難い。あの形にはこの世界で男が置かれている何かの立場が表れていると感じる。あれを使うことで何かを引き受けることになってしまう感じがして怖い。しかしそれは何なのか。それは、毎朝あの、無数の刃をモーターで高速回転させるカブトムシみたいな黒い太い棒を自分の顔に押し付けるということだ!ああ嫌だ!(2021年6月22日)

別の話。昨夜『日記〈私家版〉』のページで日記読者からの推薦コメントを募集したのだけどまだ1件も来ていない。恥ずかしいのでこのまま数日来なければ何もなかったかのように消そうと思う。YouTubeのコメント欄くらいの気分の短文でいいのでよければお寄せください。

日記の続き#43

日記についての理論的考察§7 (各回一覧
ドゥルーズは90年代初頭の段階で「イベント=出来事」が完全に商業的な領域に飲み込まれてしまったことを嘆いていた。モノ消費からコト消費へとよく言われるけど、30年前からそういう傾向に対して警戒していたわけだ。ドゥルーズ初期の『意味の論理学』は物体的な因果性をはみ出す出来事の存在論を体系化した本だったけど、そういう非物体的な次元はその後20年ほどで「付加価値」に置き換わってしまった。もちろん彼はそれでもうイベントなんて言ってたってダメだと言ったわけでなく、むしろイベントの商品化に抗うような出来事論を組み立てていった。これと似たような道筋を辿ったのが「コンセプト=概念」で、ドゥルーズはこれについても、概念は哲学が創作するものであるはずなのに商品の気の利いた惹句になってしまったと述べている。老境の彼は自分が長年取り組んできたものが資本の運動に簒奪されていく寂しさを感じていたのだろう。そういうのってどういう気持ちなんだろうか。哲学ってコンサルに使われてるんですよなんてとてもじゃないけど彼には言えない。僕なりの応答として、出来事が体験であり概念が広告であることがほとんど所与になった世界で、そういう世界が作った通路の吹き溜まりにイベントレスな日々を、コンセプトレスな散文で書いている。

日記の続き#42

9時半に家を出て、10時10分の新幹線に乗って2時間きっかりで京都に着いて、京都駅伊勢丹の英國屋テラス席でチキンドリアを食べてコーヒーを飲んでこの日記を書いて1時半京都駅発のバスに乗って2時過ぎに立命館に着く。学期が始まって6週目くらいで往路のルーティーンは固まってきた。普段は何か決まった用事があると落ち着かないのでその時々の気分で動くほうが好きなのだが、何かひとつ決まってしまったら頭の中でそこからの逆算を繰り返して落ち着かないので、ぜんぶ決めてしまうほうが楽だ。それで、今英國屋で書いている。昨夜はよく眠れなかった。寝始めたらたくさん寝るのだが寝るまでに時間がかかる。たいてい何か考えていて、といっても不安や悩みではなく何かを思いつき続けて頭が興奮して寝れないことが多い。昨夜はこの「日記の続き」を本にするとしたらどういう構造にするか、どうやって(いくらで)作って何部刷ってどこで(いくらで)売ってどうプロモーションするかということを考えていたら夜が明けて、3時間くらいしか寝られなかった。こないだの日記についての理論的考察で外堀を埋めるように考えるより書きたいことのど真ん中から書き始めるほうがいいと言ったが、それは主題的・観念的な外堀の話で、方法論的・物理的なレベルにおいてはまず外堀を埋めたほうがいいと思う。というより、方法論的な外堀と主題的な中心を突き合わせて、そのあいだの中間地帯に準−道具的なものや準−概念的なものが繁茂し始めるのが面白いのだと思う。

日記の続き#41

起きて、棒状のレーズンパンをふたつ口に入れて、しばらくだらだらして日記を書いて、外に出た。イセザキモールを歩いて久しぶりにマクドナルドに入って、ダブルチーズバーガーとポテトとコーラのセットを食べた。しょっぱさの濃淡だけがある。あとは炭酸。よくできた食事だ。カルディでコーヒー豆を買って有隣堂でノートを買ってコメダで本を読んだ。急にぐるぐるとお腹の調子が悪くなってきてトイレに行った。すぐトイレに行ける場所でよかった——やはりマックは特別なのだ——それにしてもコロナにかこつけて多くのコンビニはトイレを貸さなくなった——かなり重要なはずのインフラが不意に取り上げられたわけで、その意味するところは——それにしてもまた副交感神経が壊れてしまいそうなくらい熱い便座の季節がやってきた——などと考えながら手を洗って喫煙ブースに入った。「社長」と呼ばれるくたびれた背の低いおじさんと、「マネージャー」と呼ばれる、割れた氷のような奇妙なエイジングを施されたジーンズを履いた細身のおじさんが話している。悪いことっていろいろあるんだよ、いつも言ってるでしょ、とマネージャーが言った。でも困っている人がいたら助けるとか…… と言って社長は黙ってしまった。社長は誰かに騙されて、マネージャーは訳知りにそれはありふれたことで、気をつけるべきだったのだと諭しているようだった。彼は昔は不動産取引も今みたいに銀行を挟まず現金でやったし、それは向こうにも後ろ暗いところがあるからだし、そういうところに盗みに入っても向こうも何も言えなかったのだとか、そういう話をした。俺は知ってるよ、社長にもいつも言ってるでしょ。社長は悪い人がそんなにまっすぐに悪いことをするのが信じられないようだった。(2021年10月28日

日記の続き#40

日記についての理論的考察§6 (前回まで
ここ3回くらい「イベントレスネス」の話をしようとその入り口を探して周囲をぐるぐるしているような気がする。これは論文っぽい文章でもそうだが、たいてい外堀から埋めようとすると難しくなってしまうのだ。ひとっ飛びに真ん中に降り立ってどっちに歩くか考えたほうが結果的にスムーズに書ける。あなたはつねにすでに森の中にいて、それをまずは外から眺めてみようというのはある意味で傲慢なことだ。日記も同じで……と言い始めるとまた話が逸れてしまうので本題に入ろう。そもそもイベントレスネスという言葉を作ったのは、イベントへの衝迫のなかで日記を書いているとどんどんキツくなるのに対して、今日は何もなかったなあという日に限っていい日記が書けたりするという経験があったからだ。ここで「いい日記」というのは、それを書こうと思った瞬間にすべてが解決するような、スナップ写真的なよさのことだ。日々はスタジオではないので、照明を動かしたり背景を変えたり、モデルの周りをぐるぐると歩き回ったりはできない。写真と違うのは日記は思い出しながら書くということだが、その観点から言うといい日記を呼ぶイベントレスネス——イベントが「少ない」ということに加えてイベントが「小さい」という意味をもたせることにしよう。今思いついたのだが——とは、明日には忘れてしまいそうなことを書くということを含んでいると思う。まずはエディタを開いて、今日は何にもなかったなあと言ってみてほしい。

日記の続き#39

横浜駅まで買い物に出て、帰って昼寝をして悪い夢を見て起きた。人ごみのせいかもしれない。たくさんの人とすれ違って何かが混線するんだと思う。4年前に横浜に越してきて都内に出ることが増えて感じていたのは、東京は人の顔がどこか浮いて見えるということだった。顔が歩いていて、顔とすれ違う。あまりに人が多いので服装とか歩き方とかが後景に押し下げられるのかもしれない。どこにいても駅のエスカレーターみたいに無感動に顔が通り過ぎていく。コロナとマスクで景色は変わったのだろうか。あんまりそうは思わない。前からこんなだった。そういえばまだ夢でマスクをした人を見ていない。(2021年5月28日

日記の続き#38

先月から友達を誘って自主ゼミ的なものをやっている。書き終わるまで年単位の時間がかかる文章の中間報告的なものが、信頼できる友人どうしでできるといいなと思って始めた。長期的な仕事をひとりで淡々と進めるのはなかなか難しいし、互いのモチベーションになるような場があればいいなと。一方にそういう実利的な理由があって、他方でこういうのはちょっと僕らしくないのかなとも思うのだけど、なんだか最近切々と、5年後くらいには仲間がまったくいない状況になっているんじゃないかと思うことがあって、まったく偉そうな話だが、そういう未来は避けたいなと思って、同じような危機感をもっている人どうしで集まっておきたかった。今日は僕の発表の番で、こないだ書き終わった博論本の第二章を読んでもらって話をした。熱心に読んでもらえて、直接書きなおしに関わるような指摘もあれば極端に抽象的な話もあって、思い切って誘ってみてよかったなと思った。ひふみさんが僕の文章を読んでいるとときおりどういう気持ちなん?って思うと言っていて、こう書くとそれのどこがと思われそうだけど、僕にとっては完全にギクッとする指摘だった(普段の分析的な口調とのギャップも相まって。ひふみさんはそういう押し引きが本当に上手いと思う)。僕はテクストを縫って話の筋を通すことにいっぱいいっぱいになって、なんでその話をしているのかとか、面白がっているのか怒っているのかとか、ここは肩の力を抜いていいのかキツいところなのかとか、そういう感情的な起伏が文章から欠落してしまうのだ。それがいい方向に機能することもあるのをわかったうえで言ってくれているのもわかるし、よっぽどのことなのだろうなと思った。

日記の続き#37

朝、『日記〈私家版〉』の本体が届いた。チャイムが鳴ってドアを開けるとおじいさんの配達員がぜえぜえ言いながら立っていて、ここエレベーターないんですよねと言った。そうなんですよ、あとは荷台から降ろしてくれれば自分で持って上がりますと言った。4階建てのアパートの4階の部屋なのだ。20箱くらいを10往復くらいで持って上がって寝起きから汗だくになった。そこからも結構大変で、まず本体にエディションを1冊ずつ間違えないように書き入れてこないだ届いて組み立てておいた箱に入れて、それをさらに配送用のクッション封筒に入れて、それをまとめてファミマまで台車で持って行ってファミポートでひとつずつ送り状を発行してレジで引き取ってもらう。BOOTHの匿名配送という仕組みが大量発注を前提としておらず時間がかかるし、ファミポートを占領するのも何度もレジに行くのも申し訳ない感じがする。部屋着で行ったからニートの転売ヤーか何かだと思われているだろうなと思った。やっとのことで50冊ぶんの配送手続きが終わって家に帰ってきてから、エディション1のやつは自分でとっておこうと思ったのに送ってしまったことに気がついた。それにしても部屋が日記だらけだ。

日記の続き#36

昨夜京都から日帰りで帰ってきて疲れていて寝て、起きたら朝だった。朝起きるときはだいたい用事があって無理やり起きるときで、ぐっすり寝て起きたら朝というのは久しぶりだったのでこれを機にしばらく朝型で生活したい。ほっとくと朝6時就寝とかになって毎日夜中コンビニで買ったものを食べたりするのでよくない。バックスグループ(国民年金の取り立てを委託されている業者だ)から電話があって、払うから小分けにして払込用紙を送ってくれと言った。免除申請をして通った期間と通っていない期間、申請中なのでまだ払わなくてもいい期間が混在していて、その間も払込用紙だけはばらばらと送られてきて、いつのをいつまでにどの用紙で払えばいいのかと思っているうちに未納になるのだ。バックスグループは別にわたしらが払ってほしいわけじゃないんだけどというドライな感じがダメでいいと思う。いまどきダメでいいものはなかなかない。なんだかバカみたいな日記だ。それにしてもセルフネグレクトというものは、たいてい部屋の片付け、お金の管理、食事の三点セットで正のフィードバックがかかるものだと思うんだけど、これはなんなんだろう。僕はどんな怠惰な状態でも片付けはするので堰き止められているという感覚がある。まあ人間どれかひとつできればいいんじゃないかとも思う。ひとり暮らしや現代的な核家族に人間はまだ慣れていないというところもあるんだろう。

日記の続き#35

2週間ぶりの京都。この文章はいつも夜に書いているが、京都に来たときは12時に着く新幹線を降りて、英国屋のテラス席で昼ご飯を食べてから書くのがなんだか気持ちよくて、ここ3回くらいそうしている。ここに来て今週は何があったっけと記憶を巡らせて書くとキャッシュを削除したようにすっきりする。元来日記とはそういう効用のあるものだと思うけど、1週間おきに遠出をして同じ時間に同じ場所でキーボードに向かう切断感も手伝ってよりそうなるのだろう。それで、今回の場合はこの2週間何があったのかということなのだけど、あんまりなんにもなかったと思う。彼女と中野をぶらぶらして映画を見て、大和田俊と夜中に長い電話をして、あとはゆっくりしていた。最近作ったご飯を思い出してみよう。焼きそば、生姜焼き、ナポリタン、オムライス、鯵の塩焼き、ローストチキン、親子丼のうどんバージョン、なんだか所帯じみたものばかりだが、どれもおいしかった。適当に作れるものが増えると料理は楽しくなってくる。こだわって作る楽しさもあるのだろうが、こだわっているとレシピと目の前の食材の変化のあいだで頭があっちこっちして落ち着かない。切ったり炒めたりすることを楽しむことが食べることの楽しみに手から口へダイレクトにリレーされるのが家のご飯なので、頭はそこに添えるくらいで済むといい。