日記の続き#355

共訳書の初稿ゲラが来ていて、僕はおもに形式的なところをチェックすることになっている。註の位置と番号の対応の確認、註のなかの書誌情報などの表記の確認、そして本文全体の強調箇所等の遺漏がないかの確認。こう書くと作業自体は単純そうなのだがなかなかそうもいかず、まず原書は註番号がページをまたぐと1に戻るのに対して翻訳では章単位で通し番号を振っており、原書に通し番号を振りなおすところから始める必要がある。加えて、原書は脚注形式なのに対して翻訳は本末尾にまとめられているので、ゲラの束を各章と註にわけて綴じなおし、机に当該の章と註のゲラを広げ、iPadであらかじめ註の通し番号を振って強調箇所にマークをした原書PDFをパソコンのモニターに表示してその三つを行ったり来たりしながら作業をしている。このやり方に行き着いたのも、iPadとパソコンでむりやりPDFデータだけで第1章をやって、これでは目が滑ってダメだと気付いてからのことだ。思い返してみるとデータでやろうとしたのは、たんにフリクションボールペンを持っていなかったからで、こういうことってあるよなと思う。100円のペンをすぐ下にあるコンビニに買いに行くこと、あるいは妻に貸してもらうことに対して、なにかの具合で心理的にスタックしてしまうのだ。その複合を辿ってみると、合理的な、あるいは心情的な諸々の理由の下に、フリクション本体とインクのあのコシの抜けた赤、安いコピー用紙のあの湿った引っかかりのある触感への忌避感がある。

日記の続き#354

こういうのはどうか。日記にランダムに飛ぶリンク、そのQRコードのステッカーを「本」として売る。ステッカーだけでは本ではない。ステッカーと、表にタイトル等の書誌情報が、裏にISBNバーコード(と、もしかしたら税抜き定価)があのフォーマットで印刷されたハガキサイズ(もしくはA6サイズ)の1枚の厚紙を、ビニールの封筒に入れる。紙の真ん中にステッカーを台紙ごと糊かホッチキスで留める。台紙の対応する箇所に同じQRコードを印刷してもいい。これでもうかなり本らしくなってくる。2000部作っても制作費は5−10万に収まるだろう。やるとしたら今回はデザイナーに頼らず自分でやってみる。BOOTHでも売りつつ、『日記〈私家版〉』を扱ってくれた本屋を中心に営業をかける。封筒の外からQRコードが見えるので、店頭で「立ち読み」もできる。定価は500円。BOOTH限定でステッカーを2枚足したバージョンを1000円で売ってもいいかもしれない。書評も誰かに頼めるといい。タイトルはどうするか。『日記〈普及版〉』が妥当なところか。

日記の続き#353

雨。ずっと家にいて、夜中に傘を差してジムに行った。帰って風呂から上がるともう3時くらいで、布団に入ってツイッターを見て室井尚さんが亡くなったことを知った。博士課程で横国に入って同じ研究科だった。その頃はまだ半分森に飲み込まれた離れのような場所にあるスタジオのドアの横に灰皿があって、研究発表の演習の後、一緒に煙草を吸うことがあった。でもほとんど喋ったことはなかった。僕はもう本が出ることが決まっていて、だからここで『シネマ』論をやるのはズルいと思っていて、本を書く傍らで毎回ほとんどむりやり別のネタで発表していた。それは、ひとことで言えば舐められないためだった。あるいは、自分はここに新しいことをしに来たのだと示さないと筋違いだと思ったからだった。

日記の続き#352

布団のなかで、いつ死んでもいいように日記を書いているのかもしれないと思った。これは遺書として書いているというセンチメンタルな理由ではなく、きわめて実利的に言って、日記があるとないとではいま、あるいは早晩僕が死んだとしてそのときの僕の文章全体の時価総額も、その後の時間のなかでの価値もぜんぜん違ってくるだろうということだ。別の言い方をすれば、「どうせ死ぬ」ということに向けて書いているのではなく、「死を当てにしない」ためにこそ書いているということだ。べつに死後の評価なんて気にしたってしょうがないし、でもそのしょうがなさに向き合うことの難しさもたしかにあって、それはそのまま生きている私の価値へと私の思考を絡み取ってしまう。1000分の1で「死」が出るルーレットを毎日回しているとして、そのときに書くべきはまずもって遺書や自伝なんかじゃない。いまのうちに人目に触れておくことだ。

日記の続き#351

『ホワイトノイズ』に続いて荒川徹『ドナルド・ジャッド——風景とミニマリズム』を読んだ。どちらも水声社の本だ。水声社はAmazonに卸していないので、他のサイトで注文するときにいきおい同時に複数買うことになる(Amazonへの抵抗は立派なものだと思うのだが、そうであればもう少し自社サイトを見やすくしてほしい)。デリダの『絵葉書II』とストラザーンの『部分的つながり』も同じときに注文した。しかしあの(!)「真理の配達人」が入ったデリダの『絵葉書II』がついに翻訳されたというのにぜんぜん話題にならなかった。

連載原稿でサンティアゴ・シエラについてミニマリズムの批判的継承という観点からちょっと触れようと思っていて、それで『ドナルド・ジャッド』を読んだのだけど、内容もさることながら、とてもよく書かれた本だと思った。研究対象に直接関わる作品や一次文献、二次文献の記述が文章のほとんどすべてを占めていて、よそから理論的リソースを持ってきたりすることもなく、事実の配置だけでこれだけ面白い話が作れるのかと驚いた。この本自体がジャッドの「系列的」な構築を反復している。人文系大学院生はこういう本をお手本にするといい。

日記の続き#350

デリーロの『ホワイトノイズ』を読み終わった。すでに自分の文体に影響が出ているのを感じるくらいで(よくない結果を生みそうだが、ともかく)、読めてよかったのだが、訳者あとがきが酷くてがっかりしてしまった。いったいこの作品のどこに、現代の災禍にわれわれは他者と手を取り合って立ち向かわなければならないという「巨大なメッセージ」なんて書いてあるのか。こういう、たんに話を終わらせるためにヒューマニズムを持ち出すことをこそこの作品は皮肉っているのではないか。そうでなければ最後の場面で修道女が主人公に言う、私たちが信じていなければあなたたちは安心して不信を表明できないから信じるふりをしているのだという言葉は、何に向けられた言葉なのか。たぶん、本当に、訳者はそろそろ話を切り上げねばならないと思ったからああいうことを書いたんだと思う。ヒューマニズムはもうこれ以上話をしたくないという合図だ。小説はそのあとに始まる。

日記の続き#349

スーパーのレジ。店員が商品をひとつずつバーコードリーダーにかざしていく。硬いものから取り出し、手の中で回し、中空でバウンスさせるように、あるいはそこには水の張った桶があって、商品をそこにちょっと浸さなければならないかのように、さっと赤い光を当てて反対側のカゴに並べていく。牛乳、チョコクッキー、牛肉。彼は読み取りの閾値と戯れているように見えた。ピッという音がなる前にもう手は上昇を始めている。あるいは日によっては、読取り部の前で折り返すのではなく、もっと下から舐めるように持ち上げながら読み取らせるのかもしれない。卵、食パン、菜の花。彼はポイントカードはお持ちでしょうかと聞く代わりに、商品をすべて読み込んだあとに空になったカゴを引っ込めて手持ちのバーコードリーダー(カードはそれで読むのだ)に持ち替えながら体を起こして、0.5秒ほど意図的な空白を作り出した。胸の前で手を振りながらカードないですと言うと彼はリーダーをホルダーに戻して、カゴを精算機の横に置いてありがとうございましたと言った。

寒くなってからジムもストレッチもサボっていて、腰が痛いのと寝付きが悪いのとで悪循環が生まれつつあったので、夜中、着替えてジムに歩いて行った。有酸素運動のフロアに行って、走る気分ではなかったので手足をバタバタと動かす機械を使ってみる。隣のひとの真似をすると、なんだか後ろ向きに歩いているような脚の動かし方になるのだが、気にせずに15分漕いだ(あとで調べてみるとやはり普通は前に向かって踏み込むように使うようだった)。マシンから降りると前までなかったローイングマシンが追加されているのに気付いて、2000メートルに設定して10分ほど漕いでみた。腰と肩をしっかり動かせるので今度からこっちにしよう、帰ったら動画でフォームを確認せねばと思った。マットの上でゆっくりストレッチをしてからウェイトトレーニングのフロアに移って、滑車で下から持ち上げながら懸垂とディップスができるマシンで懸垂とディップスを交互に3セットやって、バーベルスクワットを3セットやって帰った。

日記の続き#348

日記を始めた頃は昔のこと、子供の頃のことや大阪に住んでいたときのことをわりと頻繁に書いていたのだけど、最近そういうことを書きたくなくなってきた。そもそも昔のことを書きたくなっていたことのほうが僕にとっては例外的なことだったのかもしれない。人に昔のことを聞かれるのはもともとあんまり好きじゃないし。最初は原稿のネタになるようなことは書いてもしょうがないし日記でしか書けないこと、その日あった些細なことからいかに別のいつかや何かに飛躍できるかということをやろうとしていた気がするのだけど、いまや日付がたんなるしるしみたいになってきて、のっけから読んでいる本の話をしたりすることも増えてきた。むしろ日記的なものが一種の逃避先みたいになってきて他に書くことがないからしかたなく作った料理の話をしたりしている。しかし考えていることの話をしたいというのもそれはそれで今度は日記的生活からの逃避として書いている節もある。いよいよ日々が生活にすぼまってきて、ご飯を作ったりシャワーを浴びたり掃除したりストレッチしたりということへの憎悪を鎮めるために本を読んだり、それについて書いたりしているのかもしれない。日々と生活のあいだに。(2021年9月11日

日記の続き#347

なんだか体が強ばっている感じがしたので、台所で煙草を吸いながらゴルフボールよりひと回り大きい、ライムグリーンのマッサージボールを足の裏で転がした。夕飯を作るときに出したサラダ油に容器の垂直面を引き延ばして斜面を隠すように張られた光沢のあるステッカーに「食用油で初めて! 吸油量最大20%オフ」と書かれていて、食用でない油の吸油量を抑える意味なんてあるのだろうかと思った。足の裏をほぐすと体に適切な重力が帰ってきたような気がした。

布団に入ると妻がマインドフルネスの音声をかけていいかと言うのでいいよと言うと、シタールのような、しかしシタールのように金属質でない間延びした弦楽器を背景に女性の声が体の各部位の力を入れては抜くように指示する。それがひととおり済むと、あなたは夜が明ける庭のベンチに座っていて、鳥の声を聴いて潤んだ風を肌に感じています、立ち上がって花のアーチを潜ると森に出て、切り株に腰掛けて幹に寄りかかりますという「ビジュアライゼーション」が始まる。切り株からもたれかかれるくらいの距離に木が生えるものだろうかと思っていると妻の寝息が聞こえてきて、私は立ち上がって湖畔に出ると向こうに誰かが立っている。サルトルの「まなざし」の話みたいだと思ったが、それは他者ではなく未来の私で、彼は夕日でピンク色に照らされる湖面を眺めている。未来の私は来た道を帰って、またひとしきり、今度は夜になった庭で虫の声をベンチに腰掛けて聴いている。私はどこに行ってしまったのだろうか。どうしてこんな現代文学風の趣向が施されているのかと考えながら、指示通り仰向けになっていた体を横にして眠った。

日記の続き#346

今日は文字を書かなかったなと思ったが、ちゃんと考えると日記とメール1通、ツイート1つ、妻とのLINEを書いていた。家にひとりでいて、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーのアルバムとジョージ・ハリスンのMy Sweet Lordが入ったアルバムを交互にスピーカーから流しながら、ドン・デリーロの『ホワイトノイズ』を一日中読んでいた。まだ事件が起こらない第1部はこんなのは読んだことがないという文章があったのだが、話が見えてくるにつれて各章の強度が落ちてきているように感じて、難しいものだなと思った。描写にポンと入ってくる視野の外のものが独特だ。人物たちは自分に起こることからいつも少し隔てられている。注意欠陥的な認知の文体を作った最初の例と言えるかもしれない。

こんなエピソードがある。ひとりの子供がぜんぜん泣き止まない。病院に連れて行ったり、妻の仕事終わりを待つ駐車場で車のハンドルを握らせてちょっと走らせたりしても一向に泣き止まない。車の中で主人公は子供を抱きながら、ひょっとして自分は泣き止んでほしいと思っていないのかもしれないと思う。「私はその泣き声が、まるで土砂降りの雨のように押し寄せるにまかせた。ある意味で、私は泣き声のなかに入っていった。それが私の顔や胸を、飛沫を立てて流れるにまかせた。私はこう考え始めていた。ワイルダーは泣き叫ぶ音のなかに消えてしまい、彼の失われた、宙づりのままの空間に私も入っていければ、人間にとって理解可能なものの範囲を向こう見ずなまでに拡大するという驚異を繰り広げられるかもしれない」。帰り道の途中に彼は泣き止み、家の子供たちは7時間ぶっ通しで泣き続けたワイルダーを、彼がひとりでどこか遠くに行って帰ってきたように敬意を込めて眺める。

妻が友達の家から帰ってきた。これをもらったよと言って、イタリアの小さい唐辛子とパスタの麺の袋をバッグから出す。これでペペロンチーノを作ると美味しいらしい。みんなで作った鯛と菜の花の春巻きも美味しかったので今度作るよと言うので、いろいろ学んできたんやなと言った。