日記の続き#315

たとえば鬱っぽくなって家からぜんぜん出られなくなっても、一日ひとつ日記を書くことはできるという体を作っておくことはめちゃめちゃ助けになるのではないか、と、こないだツイートしたらたちどころに500近くいいねがついて、なんだか人を騙しているような気持ちになった。嘘をついているわけではない、というか少なくとも、僕がそう思っているということは本当なのだが、それは僕が僕のためにそう思っているのであって、それが誰かの役に立つかもしれないという当て込みも含めて僕の思考のひとつの取っ手として置いているのだが、べつにそれが帰責性を生むのではないとしてもそれがいつのまにか他人にとっての他人の言葉として寄りかかる手頃な対象になってしまうことに対して僕はまだ準備ができていない、あるいは同じことなのだが、これに「いいね」をするということに対して呆れてしまったのかもしれない。かれこれ100人以上日記を始めてはやめる人を見てきた。レコーディングダイエットでもなんでもいいが、自分の生活にひとつのインジケーターを埋め込むというのは破壊的なことだ。僕が鬱病になったら日記が書けるか? たぶん日記を書くことだけはできるだろう。でもたぶんそれ自体が病的なことだ。

日記の続き#314

昼の珈琲館は混んでいて、おばちゃん四人組、不動産の話をしているらしいおじさんふたり、このあたりが地元らしく近所のラーメン屋や喫茶店の昔話をしているおじさんふたりの話が四方から聞こえてくる。おばちゃんのひとりがシュレッダーのことを「入れるとゴミになるやつ」と言ったり、不動産おじさんが「ここがだいたい5メートル」と言ったり、地元おじさんが「地獄ラーメン」の話をしたりしている。とはいえわかるのはそれが日本語であるということくらいで会話の内容はぜんぜんわからない。字面だけ取り出せば母語話者どうしでもこれぐらいわからないのが野生の言葉で、人工知能の自然言語処理はそれを前提にした言葉へのアプローチと言えるのかもしれないと考えながら本を読んでいた。その背後では注意の外のテーブルの客がそこここで入れ替わっている。iPhoneのボイスメモを起動させて15分ほど録音して、帰ってから聞いてみたが誰が何の話をしているのかやっぱりわからなかった。ビリー・アイリッシュの「Your Power」のあとにトムトムクラブの「Genius of Love」をサンプリングしたヒップホップがかかっていたことはわかった。調べてみるとLattoというアーティストの曲だった。音楽のほうが多面的なのでトレースしやすい。

日記の続き#313

真夜中、台所のシンクを掃除する。スポンジ状のヤスリで磨くと綺麗になるとYouTubeで知って、Amazonで注文して届いたヤスリを目の粗いものから順番に4枚使って磨く。ステンレスに白く浮いていた水垢が取れて、削り出された砂鉄のような黒い粒を流すと曲面が白い蛍光灯をそのまま白く、オレンジのLEDをそのままオレンジに照り返して、そこだけ時間から取り残されたようだった。

こないだイセザキモールのブックオフにふらっと寄って地下にある古着コーナーで買ったネルシャツを着て珈琲館に出かけた。オレンジとグレーのチェックでオープンカラーなのだが、DIGAWELあるいはUNUSEDだと言われればそんな気もするような抜け感がある。タグを見てみると500円でしかもGUのもので、いい買い物をしたと思った。作業を終えてスーパーでほうれん草とピーマンと牛肉を買って帰ってナムルと青椒肉絲を作って、同じときにブックオフで買った『RETURNAL』というゲームで遊んだ。こうしてみると実にいろんなものを買っている。

日記の続き#312

起きて引用する日記を選んで、ワークショップの前半でするショートレクチャーのスライドを作る。参加者は今月初めから日記を書くことになっていたのだがすでに途切れている人が多く、これまでも日記を書いてはやめる人をたくさん見てきたので最初に僕なりの継続のコツを書くことにした。

  • 日記でなくでもそうなのだが、とくに日記は、ひとつのモチベーションで続けるのはとても難しいと思う。
  • たとえば「文章が上手くなりたい」から日記を始めるとして、まず「文章が上手い」というのは非常に抽象的なことで成長が実感できるようなものではない。あるいは「日々の出来事を記録したい」から始めるとしても、記録に値するものの少なさに幻滅するのがオチだろう(いちばん危険なのは他人の評価を求めること……)。
  • 日記を直線的な動機→結果で続けるのはほとんど不可能で、むしろ途切れたり分岐したりする思いなしの複線性そのものをドライブにしたほうがいい。
  • つまり、モチベーションを複数抱えておいて、飽きたらそのつどひとつ捨ててまたどこかでひとつ拾うようにするといいと思う。

それで、メインのテーマとして僕自身のモチベーションを5つに分けて話して、その輻輳性がどう日記の文章に跳ね返るのかということを話した。キーワードのひとつは「不埒さ」で、日記に生活上の効用があるとしたら生きていることそのもののうちにある不埒さが表現になることだと思う。後半のワークショップは思いのほか盛り上がったので安心した。通り一遍の自己紹介抜きにいきなり日記を交換して自分はこの言葉の並びを書くか(書けるか)という観点から10分かけて読んでもらった。自分が書くときの解像度で人の文章を読むことは滅多にないが、不思議なことにそうすると相手に自然な好意が生まれるようだった。

日記の続き#311

そういえばこないだ応募したプレステ5の抽選販売の返事がないので落ちたのだろう。調べて別の店でまた応募した。当たったら当たったで5万円くらいするし、本当に欲しいのかよくわからない。家にあるプレステ4についても、あって嬉しいのかどうかわからない。毒親という言葉が嫌いなのは、その言葉を発する人のうちにある毒親性を温存し増幅しさえするだろうからだ。精神分析はそれを超自我と言う。毒親と言う側と言われる側の分割は、言う側の心のなかで反復されるだろう。引き出しに入ったコントローラーを取り出すときに子供のゲームを捨てる典型的に毒親的な衝動を静かに感じている。ブルシットジョブという言葉も嫌いだ。いずれもたんに社会的な分断に寄りかかっているだけでなく、その言葉を使う人を自罰的、自嘲的な態度にスタックさせてしまう感じがする。自分の仕事なんて「ブルシットジョブ」だと言うことがある種の安心をすら与えてしまうとするなら、いったいどうすればいいのだろうか。ぜんぜんわからない。(2021年6月2日

日記の続き#310

寒くなるとわかっていたので、いちばん分厚いヒートテックを着て、家から出なくてよいように夕飯の材料も買っておいた。東京も雪だったようだがうちの周りはただの冷たい雨で、ただ妻と家でそれぞれのことをやっていた。音楽のなかのふとした音が妻の話しかける声に聞こえたり、寝室の暗さを横切る加湿器の霧が妻に見えたりする。それは聞こえるとか見えるというより、聞こえそうとか見えそうとか、知覚よりずっと予期に近い。実家に住んでいた頃、母がよく僕を兄や犬の名前で、兄を僕や犬の名前で、犬を僕や兄の名前で呼んでいたことを思い出す。家族というのはそれくらいぼやっとしたものなのだろう。それは文字通りアンビエンスというか、知覚よりずっと記憶に近いものでできた周辺視野に溶け出している。夜、横で寝ている妻が自分の寝言で目が覚めて「何?」と聞いてきたので、僕じゃないよと笑って言った。家族は幽霊の代わりなのかもしれない。

日記の続き#309

日記についての理論的考察§20

日記を書いていてこれはツイッターでは書けない書き方だなと思うこともあれば、その逆もある。たとえば昨日「最近よく聞くようになった「距離感がバグっている」という言葉も思い出す。過度に馴れ馴れしいという意味で使われるのだが……」と書いたが、「思い出す」という導入もミームの説明もツイッターでは書かないだろう。「最近「距離感がバグってる」とよく聞くけど……」とかでいいし、これでも冗長なくらいだ。そう、冗長性。それぞれの媒体に固有の冗長性の押し引きのようなものがあって、ツイッターは構文レベルで蓄積されているパターンの冗長性に寄りかかれるが、日記だとそれを文として開いて引き受ける必要がある。この場合「文」とは何か。それは「プレーンな文法」を指し示すというより(一面ではたしかにそうなのだが)、それがひとつのセンテンスに自足しえずに文をまたいで冗長性を組織することを指すだろう。

日記の続き#308

高校生が回転寿司屋で回っている寿司に唾を付ける動画がSNSで拡散されて、たちどころに企業の株価が下がり(そして以前より上がり)、本人の身元が特定され、自主退学に追い込まれるということがあった。牛丼屋の紅生姜を容器から直接食べたり、アルコールスプレーにライターで着火したり、同様の「迷惑行為」が次々と投下される。「バカッター」や「バイトテロ」という言葉は10年くらい前からあったはずだが、今回の騒ぎについては動画を拡散し消費する側の攻撃的な心性が目立っているように見える。ある種のラッダイトとして上手くいきすぎてしまったのだろう。アクリル板の迷路になったコントロール社会に逃走線を引く数滴の透明な爆弾。しかしくだらない冗談はくだらない冗談なのだ。最近よく聞くようになった「距離感がバグっている」という言葉も思い出す。過度に馴れ馴れしいという意味で使われるのだが、SNSの画面越しに「迷惑」を断じるなんてそれこそ距離感がバグっている。それをドンピシャで逆撫でしてしまったのだ。とはいえくだらないものはくだらない。

日記の続き#307

かつて松岡正剛は「読者モデル」という言葉を雑誌に限らず書籍一般に敷衍して、それぞれの本の魅力を引き受けるような読者像の側から本をプロモーションをする可能性を説いていた。又吉直樹は太宰の新しい読者モデルだっただろうし、松岡自身も折口信夫やら寺田寅彦やらの読者モデルになっているだろう。これはすでに物書きである人間が私淑する書き手を紹介するということに留まらず、たんなる読者がたんなる読者のままでなにがしかの趣味にコミットする可能性をも含んでいたはずで、つまり、「推し」なきファンダムのようなものが——卑近な例としては「ハルキスト」という言葉に表れているような——が10年20年前には普通にそこらにあったはずなのだ。

こないだ黒嵜さんと話していて、誰もがクリエイターあるいはプレイヤーだということは逆に言えば明示的にそうでない者は全員未然の「ワナビー」であるわけで、それは近頃の人文系の論調にも表れているが、それに対して福尾くんは見るだけ・読むだけの可能性を理論のレベルで示そうとしているように見えると言ってくれた。そうかもしれない。客が客でいられないというのは窮屈なことだ。

日記の続き#306

珈琲館はめずらしくひとがまばらだ。5章の冒頭を組み立てようと思ってworkflowyを開くと、去年の9月に思いつきでプロットを書いていたことに気がついた。助かるという気持ちと、4章を仕上げるのに結局3ヶ月もかかったのだという絶望とが一緒によぎった。ともかく順調に進んだのでよかった。

パラニュークの新刊と『サバイバー』を読み終わって、今度はエルヴェ・ル・テリエの『異常(アノマリー)』を読んだ。周期的にこうしてとにかくストーリーに引きずり込まれるノワールものをまとめて読みたくなる。『異常』はフランスで100万部も売れたらしく、しかもル・テリエはウリポのリーダーらしく、これは日本で言えば円城塔がセカイ系小説を書いて200万部売れるくらいの変なことだ。もっとそういうことがあってもいいと思う。とはいえ内容はあんまり面白くなかった。