日記の続き#285

急にめっきり寒くなった。これまでも寒かったが、本当に寒い時期に入った。僕は本当に(本当に)寒いのが苦手で、こう冷え込んでくると起きても体が動かないし、むりやり外に出るとずっと体の中がひくひくと震えているような失調に陥る。体のエネルギーが3段階ぐらい落ちてしまうのだ。エアコンの暖房でどうにかなるものでもなく、いちど湯船に浸かってからでないとまともな活動ができないくらいで、そうこうしているうちに夕方になった。今日はちょっと仕事は諦めようと思って、スーパーに行って大量の野菜とトマト缶ふたつを買って、フライパンいっぱいのソフリットを作りながらトマト缶を煮詰めて、それを合わせてパスタソースにして食べた。料理をするとやっと体に熱が戻ってきた。明日から2日間家にいないので余ったものは妻のための作り置きにもなる。しかしこの冷えはどうしたものだろう。これがあと2ヶ月は続くと考えると暗い気持ちになる。食べて動いて代謝を上げるのがいいんだろうけど、食べたり動いたりするまでにものすごく時間がかかってしまう。

日記の続き#284

大和田俊と新宿のデカメロンに展示を見に行く。ご飯を食べるところを探していると歌舞伎町にもこんな店があるのかという素朴な定食屋があって、そこで生姜焼き定食を食べた。大和田さんが壁に貼ってある子供の絵を見て、これは何語ですかと店員に聞くと、ミャンマー語で、地元の子供らが来たときに描いていったのだと言った。大和田さんいわくなぜか知らないがミャンマー人が和食の店をやることはけっこうあるらしい。展示は村田冬実さんの個展で、会場で久しぶり——芸大で『アーギュメンツ#3』を買ってもらって以来だから6年ぶりくらい——に村田さんに会った。ビンゴゲームの紙の当たったところを折り込むように、対象の輪郭に沿って切り取った写真が折られ、伏せられた紙から対象が立ち上がっている。写されているのは人形やぬいぐるみで、ひとの家の窓に外に向かって置かれているものをガラス越しに撮ったものだということだった。伏せられた背景はかすかに反り返っていて(ロール紙に印刷したかららしい)、写真と同じ大きさの展示台の下から覗くと縁からカーテンの模様や室内の光が見える。人形はガラスのテクスチャーや外景の映り込みによってそれぞれにある種のエフェクトがかかって、それが不思議とどれも懐かしさの印象を与える。写真の隠喩だ、と思う。でも写真の隠喩をインスタレーション的に作ることより、それがすでに街路に露出していることを示していることが大事なのだと思う。1階のバーで村田さんと大和田さんとビリヤニやインドについて喋っていると村田さんの友達の作家も合流して、手巻き煙草の巻き方を教えてもらったり、それぞれ試している健康法を教え合ったりした。それほど親しくないひととそういう他愛のない話をしたのが楽しくて、それがものすごく久しぶりのことに思えた。大和田さんは結石が痛むらしく、情報番組の天気予報のように移動する痛みをそのつど報告していた。

日記の続き#283

10日くらい前から毎日ノートに作業日誌を付けている。作業に取りかかる前にノートを開いて、日付と、ノートを付け始めてからの日数をDay 9というかたちで書く。その日したい作業のあらましや、どこでつっかえているのかということをバラバラと書いて、興が乗ればそこでアイデア出しをしてもいい。日数を書くのがポイントで、これで時間が過ぎていっているのだという実感と、多少とも実のある作業が積み重なっているのだという手応えが得られる。こういう長い、締め切りもあってないような仕事はこうして、時間を逆算するのではなく加算していくような仕組みが必要だ。ちょうど今は卒論、修論、博論の提出時期だが(自分がぜんぶちゃんと出せたなんてウソみたいだ)、そういう本当の、出せる出せないと自分の社会的ステータスがくっついた本当の締め切りがあるのは学生のうちだなと思う。それで、作業が終わったらまたノートを開いて、やったことと明日やることを書く。たいていぜんぶで半ページにもならないが、それだけで毎日パソコンを開くたびに同じ場所にリスポーンするような徒労感はなくなる。今日が昨日と違うということも、手に取れる何かでそれが確認できないとわからなくなる。とりわけ本の執筆のような、成果物だけ見れば日の出時間のようにゆっくりとしか変わらないものについては。

日記の続き#282

ヤクザなのか半グレなのかわからないが、喫茶店に借金の取り立て方法を話し合っているらしいグループがいた。どういうわけかこういうひとらはたいてい、グループのうちひとりが大げさにあいさつしながら店を出たり、またべつのひとが入ってきたりする。そこにはまた独特な空間のスケール感があって、僕はある席に座っているひとに話しかけるためにはそこから1m圏内に近づくのが自然だと感じるが、彼らは店の入口から席に向かって「おつかれさん」とか言うことにためらいがない。そのグループだけ半分外にいるような変な空間になる。借金をしているのはマジシャンらしかった。

それにしても、ものを言うことが通販サイトの商品ページに足跡を残すことと大差なくなってしまった世界で、長い文章を書くことにどういう意味があるのだろうか。たとえばこのサイトには1日300人前後が訪れていて、その平均滞在時間が1分半くらいだということなのだが、この数字はどれくらいレジスタンスとしてめぼしいのだろうか。

日記の続き#281

疲れていたのか、はっきりしない一日だった。夕方になってようやく作業をしに外に出て、関内のベローチェに入った。近所には幸いいくらでも煙草が吸えるカフェがあるが、そのうちどこを選ぶかというのは時間や予想される混み具合や飲みたいものや作業と机の広さの兼ね合いや、妻が一緒かどうか、あるいは夏であれば冷房が強すぎないかといった条件群と照らせばおのずとひとつに定まっていく。ベローチェで『哲学とは何か』を読み返していたところで、日記ワークショップの趣意文の締め切りだったことを思い出してstoneで書き始めた。結局600字ほどを書くのに1時間以上かかってしまって、僕は変なところで真面目だなという気持ちと、仕事だが作品ではないこういう文章を書くのも好きだなという気持ちが一緒になってやってきた。帰って鮭と舞茸の粕汁を作って、塩鯖を焼いて、納豆のパックを出して食べた。

日記の続き#280

正月が明けて世間が動き出したのか、連絡がふたつ来て、締め切りがふたつできた。誰かが働くと自分も働くことになる。翻訳をしていて気づいたら夜の10時前で、これからスーパーに行ってご飯を作るのも面倒だなと思ってウーバーイーツを開いた。ピザ屋以外のどのお店にも「近くに配達パートナーがいません」という表示があって、どうやらあれだけいた配達員はみんないなくなってしまったようだ。それにしても配達パートナーとか、ディズニーランドのキャストとか、マックのクルーとか、ネスカフェアンバサダーとか、なんなんだと思いながら近所の焼肉屋に行って焼肉を食べた。(2022年1月7日

日記の続き#279

『それから』に続いて『門』をオーディブルで聴いている。声優が変わって、女性の台詞を林原めぐみ風のコケティッシュな声の声優が読むので最初はうろたえたが、聴いているうちに慣れてしまった。聴きながらやよい軒で肉野菜炒めを食べて馬車道のサモアールまでまっすぐに歩いて行く。「そうすけ」と「およね」の夫婦は、叔父から押しつけられるような格好で夫の年の離れた弟の「ころく」を家で預かることになる。「六畳」と呼ばれる部屋をあてがうことになり、「ころく」が家に来るまでの数日間に一章が割かれている。六畳に置かれた鏡台の前に「およね」が座って、「そうすけ」の洋服にブラシをかけている。ブラシの音が止んでも「およね」が出てこないので、「そうすけ」が六畳に見に行くと、彼女は泣いたあとのような声で「はい」と答える。「そうすけ」は空元気を出して昔の話をしたり、「どうですか、世の中は」と言ったりする。すでに何かが起こってしまって、これから何かが起こるまでの宙づりの時間。『それから』も『門』もまったく自分のことのように思える。いま聴けて(読めて)よかった。作業の帰りにまた聴きながら歩いて、カレイと菜の花と生姜を買って帰って、カレイの煮付けと菜の花のおひたしを作った。

日記の続き#278

こんどやる日記ワークショップの概要文を書かなきゃいけないのだが、細かい内容が定まらずどうにも取りかかれずにいる。15人ほどの参加者に3ヶ月間日記を書いてもらって、そのうちに2、3週間にいちど集まって全5回のワークショップをする。ワークショップの難しいところは、ワークショップ的な安易な楽しさにどこまで寄りかかるかということだと思う。他人の日記を自分なりに書き換えるとか、複数人でひとつの日記を作るとか、誰かが撮った写真をもとに日記を書くとか、出来事の順序を入れ替えるとか、三人称に書き換えるとか、やれば楽しそうな実験はすぐに思いつく。しかしどうしてもこの、楽しそうということが引っかかってしまう。一方で日記をひたすら書き継ぐこと自体はべつに楽しいことではないし、他方でワークショップ的な行き場のない楽しさに何か意地悪をしてやりたい気持ちもある。そもそも日記なんて集まってどうこうするものでもなく、それぞれ勝手にやればいいのだ。それぞれ勝手にやればいいということの厳しさに向き合うことがゴールになるといいのかもしれない。

日記の続き#277

単著スケールの長文を書くことの難しさは、ワーキングメモリとストレージの区別がつかなくなることにある。短い文章ではそもそもこの区別は必要ない。作業するにあたってあらかじめこの範囲をやるぞと決めていても、いつの間にかストレージからいろんなものを呼び出していて、90分ほどを境にどんどん動作が重くなってしまう。これは半面いいニュースでもある。いままで集中力が落ちるから作業が続かないのだと思っていたが、むしろ集中するほどに息が詰まってくる(実際に文字通り息が詰まる感覚がある)のだ。したがって考えるべきはこまめにワークスペースを自覚する方法だ。あるいは反対に、ストレージから呼び出してしまっているものを頭のなかから逃がす方法だ。こちらのほうが性に合っているだろう。実際パラグラフ・パッド(いつかの日記で説明した)はそういうものとして考えられる。平井靖史さんの本を読んでいたからこういうことを考えたのかもしれない。

日記の続き#276

コロナのワクチンを打ちに弘明寺の病院にいく妻についていく。駅で別れて、商店街のドトールで日記を書き終わると戻ってきた。しばらく周辺を散歩して2階建てで2階が喫煙席になっている喫茶店でオムライスを食べてそれぞれ仕事をする。古い喫茶店で、レジの壁には山本KID、松岡修造、サンボマスターのサインと写真が飾ってあった。片方は緑のダウンにリュックを背負ったまま座っていて、もう片方は赤いパーカーと黒いニット帽の両方にたくさん英字がプリントされている妙に幼い喋り方をしているおじさんふたりが正面に座っていて、めざましジャンケンは難しいという話や、薬局にドリンクバーがついていて2時間もそこで過ごしたという話をしていた。