日記の続き#170

珈琲館で作業をしていると窓の外を黄色い何かがひゅっと落下して、何かと思うと横にどけていたアクリル板が窓に寄りかかるように仰角に倒れて、それに合わせてそこに映り込んでいた照明がひゅっと下に動いたのだった。なおしてしばらくするとまたひゅっと落下して、また騙されてぎょっとした。

日記の続き#169

トークのアーカイブ動画を見て、なんだか毛の量が増えて頭が奥行き方向に伸びているみたいで髪を切るべきだなと思ったので美容院を予約した。朝まで起きていてそのままみなとみらいまで出かける。ランドマークプラザの一角でアジア各国の子供が書いた絵日記のコンテストの展示をやっていて、どれも絵が上手で驚いた。スタッフがゆっくりご覧になってくださいと話しかけてきたので「はい」と言って見た。また話しかけてきてせっかくゆっくりご覧になっていただいているのでアンケートにお答えいただければ日記をまとめた冊子を差し上げますと言うので回答した。どうやってこの展示を知ったかとかいう通り一遍の質問の後のほうにこの企画に教育効果はあると思うか、子供が見ると良いと思うかという質問があってそこは空白のまま渡した。美容院でシャンプーをしてもらって、ひととおり切ってドライヤーをすると急に嵩が増して美容師が驚いてあらためてたくさん梳き始めた。退屈させないためかタブレットで退屈な動画が流れていて、眼鏡を外しているのでよく見えなかった。インスタグラムでよく見る人を馬鹿にしたような10秒ほどのレシピ動画なのだが、おそらく長ネギの青いところに挽肉を——わざわざ生クリームを絞る袋みたいなやつで——入れて焼いていた。近くのスポーツショップで服を買って、タリーズで日記を書いて帰って寝た。

日記の続き#168

昨夜、珈琲館を出て歩いていると、「お客様、イヤホン」という声が聞こえて、振り返ると店長が僕のイヤホンを持っていた。ありがとうございますと言ったあと、どうせまたすぐ来るのにと思った。今朝、小さな地震があって、ツイッターに「揺れだ」とつぶやいてから、どうして「揺れた」じゃないんだろうと思った。このふたつの話は似ている。

日記の続き#167

珈琲館。日記メモを開いてみたが何も追記しておらず、頭のなかで昨日から今日までのことを辿りなおしてみる。今はもう夜8時で、書いているのは昨日の日記で、今朝珍しく8時くらいに起きたと思ったら昼にものすごく眠たくなって起きたら7時だった。昨夜寝たのは朝4時で、それまでは作業をしたり家でゆっくりしたりしていた(昨日もこれくらいの時間に珈琲館にいたはずだ)。台風が去って急に涼しくなったのに巻き込まれて、日々がサイクルではなく出し抜けな眠気や空腹の到来にすり替わって厚みが吹き飛んでしまったかのようだ。おそらくそもそも——贅沢な話だが——生活リズムを預ける添え木のようなものが存在しないからこういう出鱈目な感じになるのだが、そのなかでカフェインやらニコチンやらストレッチやら筋トレやらで自律神経をあっちからこっちから引っ張ったり緩めたりしているわけで、世話がないというか、そういう世話のなさ——こうして二歩目ですぐ抽象名詞化する癖がある——に投げ込まれてある感覚が結局のところ好きなのだと思う。

日記の続き#166

日記についての理論的考察§16

こないだの美術館でのトークのアーカイブを送ってもらって見返していた。そのなかで日々の出来事と日記のあいだには、ふつうに考えれば「その日あったことを書く」という意味で時間的な前後関係とともに出来事の平面と日記の平面の階層関係があるが、実際はいずれの意味でもそんなにすっきりいかないという話をした。以下はその補足。日記が「その日あったことを書く」ものであるなら、理想的な日記は25時間目に書かれるはずだ。つまり日記という形式には実際はその日のうちにありながらあたかもその日の外から書いているかのように書くことを要求するという、お決まりのクラインの壺的な循環がある。ここから抜け出すための実際的な手口としてまず、夜更かしをするということがあるのだが、当然これは生活時間がズレ込んでいくことを代償として引き起こす(今日も起きたら午後2時だった)。しかし他方で書いていると勝手にその循環から抜け出ることもあって、それは「その日あったこと」の外に出たり、なんもなかったなと思いながら書いているうちに言葉に引っ張られて「その日」から新しいものを引き出せたりすることとしてある。

日記の続き#165

3日ほどかけてメイヤスーの『有限性の後で』を読み返していた。偶然的なものだけが必然的であるというテーゼや、祖先以前的言明——要するに経験科学の言明一般。僕としてはこれがことさら「言明」であらねばならない理由が気になるのだが、それはともかく——の絶対性のテーゼより、特定の宗教への帰依と区別される「信仰主義」という概念を作ったことがいちばん偉いのではないかと思った。とりわけハイデガー、ウィトゲンシュタイン以降の「強い相関主義」における、絶対的なものへのアクセス不可能性を人文的な思考の条件とする態度は、絶対的なものを理性の管轄外に置くためにかえって宗教を真面目に考える回路を手放してしまうという議論だ。これはたとえば、いつかの日記に書いたことだが——サイト内検索ですぐ出てくるだろう——ロザリンド・クラウスの指標論で「写真的なもの」が担う因果的連関の奇妙に神秘的な性格を批判的に検討するうえでも役立つ話だと思う。というのも、相関主義−信仰主義が理由律を思考不可能なものとして温存する手つきと、写真的なものによってたまたまそこにあるものとの因果的連関を芸術実践の口実にし、芸術を宗教化する手つきは同形だろうからだ(これはサイト・スペシフィシティ、さらにはその商業的−行政的領域への拡張としての地方芸術祭まで一本の線で繋がっている)。

日記の続き#164

時間帯はズレても毎日書いているのだがどうしてか内容が「今日」からどんどん遅れていく。昨日とおとついに分けて書いてみよう。

9月17日
この日は朝起きて、コメダ珈琲で朝ご飯を食べた。しばらく仕事をして有隣堂に行って、妻とそれぞれ1冊気になるレシピ本を買うという遊びをした。僕はウー・ウェンの炒め物がまとまった本にして、彼女は作り置きできるフランス料理の本を買っていた。帰って昼寝をして、レシピの写真を撮ってスーパーに食材を買いに行った。No rain, no rainbow. と書かれたTシャツを着ている人を見て、どう思えばいいんだろうと思っていると『トイ・ストーリー』のウッディとバズのぬいぐるみを車体にくくりつけて、ウッディがバズを引っ張り上げている場面を再現している軽自動車が脇をすり抜けていった。ざっくり切ったトマトと玉子の炒め物と、イカとブロッコリーのオイスターソース炒めを作って食べた。美味しかった。

9月18日
夜更かししたからか起きたらもう昼で、ささけんさんが参加しているグループ展が今日で終わってしまうので六本木に見に行った。馬車道駅から東横線に乗って、中目黒で降りてホームの反対側に入ってくる日比谷線に乗る。展示は駅から出てすぐのところにある、いくつも現代美術系のギャラリーが集まっているビルでやっている。どこも禁煙なので路地で煙草を吸おうと思うとライターを忘れていて、ファミマに入るとそこに喫煙ブースがあった。ビルの1階のギャラリーは知らない海外の作家のよく売れそうな絵を展示していた。石膏像や古い本を置いたティピカルな構図のなかにナイキのスニーカーが置かれた静物画でげんなりした。3階でめあてのグループ展を見て、田村友一郎の個展も見た。田村のインスタレーションはふたつ見たことがあって、今回のものを含めどれも特定の歴史的なモチーフから言葉遊び的な連想に基づくリサーチをして、しかしそれをただ言葉として持ってくるのではなくブツとして並べるというかたちなのだが、手法に作家性を見込まれるのは辛そうだなと思った。ささけんさんの絵は五味家で見て以来初めて見て、あそこから引き剥がされた「絵画」として見るのは不思議な感じがするなと思った。剥がすほどにタッチの迫真性が増す。中庭に向いたテラスに喫煙所があって、煙草を吸って横浜にとんぼ返りした。

日記の続き#163

夜、散歩しながらツイッターのスペースで大和田俊と喋った。ステレオはヤバいという話とか、日付は怖いという話とか。彼は9月11日を、今日は9月11日で、ナインイレブンから20年だと思いながら過ごし、同時に、9月11日に入っていた予定を忘れていたわけでもないのにすっぽかしてしまったらしい。その9月11日とこの9月11日の乖離。これは日記を書いているととてもよくわかる話だ。僕はそれをとりあえず「日々と生活のあいだ」と呼んでいるのだけど、そこには不気味な川が流れている。毎日、毎週、毎月、毎年という循環的な時間に寄りかかって日々と生活のあいだに橋をかけることはできる。でもそれはあくまで橋であって、川はつねにその下で橋桁を舐めている。日記を書いているとだけ言うと、毎日の生活の些細なことを愛で、「丁寧な暮らし」と呼ばれるような日々と生活の調和を描いているのだと思われるかもしれないけどそれはまったく反対で、日付を書き間違えたり、1日書き飛ばしたり、何も思い出せなかったり、別の日に飛ばされたりで、どちらの岸にも辿り着けずに翻弄されているというのが実情だ。でもそれが時間というものの姿ではないか。

帰ってベランダで、柵に肘をついて煙草を吸っていると、一瞬指がゆるんで煙草が傾いて外に落としてしまいそうになる。咄嗟に持ちなおす一瞬のうちに、煙草ではなく自分が頭から、ちょうど干した布団がずるっと外側に滑り落ちるように、落ちるような感覚が背筋に走った。ぼおっと見ているうちに煙草の先端が頭になっていたのだろう。(2021年9月28日

日記の続き#162

うっすら昨日の続き。10年ほど煙草を吸ってきて、そのあいだに喫煙者をめぐる状況も変わってきた。値段も1箱100円くらい高くなったし、吸っていい場所もどんどん減っている。幸い近所には珈琲館をはじめ喫煙可の喫茶店がたくさんあって不便を感じることはないが、それだけに出かけるときに煙草が吸えるのか気にしなければならないことが億劫で出不精に拍車がかかっているところもあると思う。こないだ夜に今日は外で食べようと言って、近所のデニーズに行った。『眼がスクリーンになるとき』を書いていたときは毎晩のように行っていた店で、でも喫煙席もなくなって24時間営業でもなくなってぜんぜん行かなくなっていた(これは僕は死ぬまで繰り返し言うが、ファミレスの禁煙化と営業時間の短縮はコロナ禍の前から起こっていたことだ)。それで久しぶりにそのデニーズに行って、かつて喫煙席だった席に彼女と座って(当時は付き合ったばかりで僕が夜中2時くらいに突然デニーズに行くと言い出してびっくりしていた)、なんだか懐かしくて、ここに来れなくなっているということが寂しかった。ここからが今回の本題なのだが、もちろん一方で禁煙化の流れに腹が立つということがある。しかし他方で、腹を立ててもそれによって僕の生活の輪郭が規定されていることは動かないじゃないか、もう一歩踏み込んで言えば僕はそれにどこかで寄りかかっているのではないかとも思う。しかし煙草は好きだし禁煙はしたくない。やりたくないことはやりたくない。それで、昨夜ふと思いついたのだが、ニコレットとかガム状の禁煙補助剤を煙草と併用するのはどうだろうかと思った。問題はそれが安くはないことくらいで、それが鞄に入っているだけで、店に行く前にそこで煙草が吸えるかビクビクしなくていいし、図書館で長時間の調べ物をしない理由もなくなるし、試してみてもいいかもしれない。これは服従だろうか、禁煙補助薬をニコチンのブーストに使う抵抗行為だろうか。どっちだって知ったこっちゃないという平面もあっていいと思う。

日記の続き#161

ちょっと内在しに……という感じの、筋トレ、ソロキャンプ、サウナといった流行の次に来るのは「息止め」なんじゃないかとふと思った。これらプチ内在系の活動はデジタルデトックスや自律神経の緊張−弛緩に共通して狙いを定めているが、煎じ詰めればそれは身体の輪郭のうちに思いなしを押し込めるということだろうし、そうであるなら息を止めるのがいちばん手っ取り早いはずだ。実際これは寝付きの悪いときなどに効果がある。ゆっくりと限界まで息を吸いながら、胸郭を内側から上下前後左右に押し広げるようなイメージをしつつ、吸いきったらその胸の圧をなるべく保ったまま息を下腹部まで移動させ、その状態でしばらく息を止めてゆっくりと吐く。何度か繰り返すと内臓がため息をついたようにくたっとして落ち着く。問題があるとしたら写真に映えないことだ。それにしてもこのプチ内在系の流行はマインドフルネスとの親近性からもわかるようにスピリチュアル的な側面もあるはずで、オウムが最初たんなるヨガ教室だったことなどにも思い当たるが、ちょっとした内在の方便として機能する超越があるのかもしれない。