日記の続き#298

散髪をしたら髪の総量が4分の1くらいになった。どうしてそんなに切ろうと思ったのかと妻に聞かれたので、明るく見えるからだと言った。

あらかた終わったと言ってから2ヶ月くらい苦しんでいた4章ができて、見てみるとこの章だけで5万字もある。これだけで本にして出したいくらいだ。あと2章。あと2ヶ月。

日記の続き#297

締め切りがヤバい原稿を書いていたけど、結局まだ終わりは見えないので明日のほうが大変そう。諦めて日記だけ書いてしまって寝よう。書いていると自分の集中で息が詰まってしまう感覚があって、それをいなすために煙草を吸ったりするのだけど、それでスマホを触ったりしているうちになかなか作業に帰って来られなくなることがある。ポモドーロ法というタイマーをつけて25分作業5分休憩をひたすら繰り返すやり方もあるようだけど、執筆には向いていないような気がするし、想像するだけでキツくて嫌になる。作業も嫌だし時間割も嫌だしぜんぜんできないだろう。締め切りは時間を等分しないので好きだ。たとえば20日後の締め切りまでに4000字書かないといけないとしよう。毎日200字ずつ書く人なんていないだろう。たいてい以下のようになるはずだ。最初の10日は何もしない。1日200字ノルマが1日400字ノルマに変わるのなんてなんでもないことだからだ。15日目にやっと1日800字ノルマになって、頭のなかにざっと書きたい内容を再現できることを確認して、明日くらいからやろうと思いながら寝る。あと4日。最初の段落を書いた達成感で終わる。あと3日。ボディの部分が思ったように進まなくて焦りつつ終わる。あと2日。やっと本腰が入って、あとは最後の1日で走り抜けられるか、「本当の締め切り」を当て込んでふて寝するかだ。明日どうなるか。(2021年6月5日

日記の続き#296

横浜に買い物に行って、日記を書かなきゃいけないからと言って化粧品を見ている妻を置いてカフェに入った。まあ禁煙でもいいだろうと思ってすぐ近くにある店でがちゃがちゃと日記を書いて仕事のメールを返す。一緒に出かけておいて日記を書くからと言って中座するのも変な話だ。その店でまた合流して昼ご飯にスンドゥブを食べて地下鉄で帰って、今度はまた作業をするからと言って僕は帰り道の珈琲館に入り、妻はそのまま家に帰った。しかし珈琲館で美味しいコーヒーを飲んで落ち着いてしまうと作業にとりかかる気にもなれず、結局昨日買ったパラニュークの本を読んで、煙草が切れたので店を出た。

日記の続き#295

Amazonを開くと『ファイト・クラブ』のパラニュークの新刊がおすすめされていて、黒嵜さんが好きな作家なのでリンクをLINEで送ったら、もう注文しているということだった。そのままチャットしながらイセザキモールを歩いて有隣堂に入るとちょうどその本があったので買う。映画に使われる悲鳴専門の録音技師の女と、行方不明になった娘をダークウェブのポルノサイトで探すうちに陰謀論に引きずり込まれる男の話らしい。映画のコーナーに佐々木敦の『映画よさようなら』という本が出ていて、2軒手前にあった年中閉店セールをしている店のことを思い出した。ベローチェに行くのは毎回賭けなのだが、2階席の壁いっぱいの窓を京浜東北線が横切るのが見たくなって入った。しかしやはり失敗で、客の3分の1は机に突っ伏して寝ており、おじいさんとおばあさんが大声で罵り合ってときおりおばあさんはテーブル越しにおじいさんの耳を引っ張ったり帽子ごと頭をつかんだりしている。とくに誰もそれを気にしている様子もない。ここは関内の会社員のくたびれ成分と、イセザキモールの老人のくたびれ成分が合流する潮目になっており、それだったら新横浜通りを渡ってカフェ・ド・クリエやルノアールまで行くか、もっと手前のコメダやドトールのほうがまだ少なくとも身の置き所というものがある。ちょうど博論本の作業は平倉さんの『シネマ2』の「叫び」解釈を使う箇所で、それがひと段落してさっき買った『インヴェンション・オブ・サウンド』を開くと映画の悲鳴の話をしている(芸大の出張講義で平倉さんがゴジラの咆哮の分析をしていたことも思い出す。そこには「戦争」が折り畳まれている)。パラニュークの本は初めて読んだが、確かに描写が黒嵜さんっぽいと思った。ひとつひとつの知覚がエッジーで、藪をかき分けるように神経質に動く体が想起される。

日記の続き#294

あれをやるためにはまずこれをやるべしというのはつまらない。予行演習が必要なのは組織体だけであって、個人においてはなんでも「やってみる」ことができる。他方でプロセスエコノミー、つまり作っているところを見せるのがつまらないのは、結局のところ作品の作品性をあらかじめ囲い込んだうえで成立するものだからだ。20分でできるもの、2時間でできるもの、3週間でできるもの、3年でできるもの、1日のなかでそれらを行き来しながら、習作と作品をパタパタと回転させること。昨日と今日の展望の差分から未来を汲み出すこと。計算がつまらないのではない。計算に時間が勘案されていないのがつまらない。

日記の続き#292

着なくなった服を7着買い取り業者に送ったら合計2万5千円になった。ほとんど値が付かないものもあったが、6年くらい前に大阪の中崎町の古着屋で1万8千円で買ったディオールのプルオーバーのウールコート(着脱が面倒で着なくなった)が1万2千円で売れて、やっぱりハイブランドは違うんだなと思った。売ったお金で窓際に置く長細い電動のラジエーターのようなものを買った。うちの窓は2重ガラスなのでそこまで冷えないのだが、やはりエアコンの風には「結局寒いのだ」という事実への焦燥にひとを巻き込んでいく感じがある。

長い文章を書いていると、大筋の問いをよそにトピックの細部に引きずられてしまうということがある。他方でそれは執筆の大切なドライブでもあり、会話と同じで、終点から逆算して詰め込まれる文章は面白くない。難しいところだ。作業の帰り道にそのことについて考えていて、「大義を忘れるな」という言葉があるが、真に重要なのは大義の忘れ具合を調節することなのだと思った。そんなことができるのかはわからないけど。

日記の続き#291

Mac bookをVenturaにアップデートしたら、クラムシェルモードで使っていたディスプレイの解像度がおかしくなって、画像や動画はきれいに映るのだが、文字だけが少し滲んだようになってしまう。いろいろ調べたがどうにもならず(Font smoothing機能がオフになってしまうようだ)、本体を開いたまま普通の外部ディスプレイとして使うとちゃんと映るので、ディスプレイの横にPCを開いて置いている。どうにも落ち着かない。

夕方までだらだらしていて、これではいかんと思って着替えて珈琲館で作業を進めた。妻から調子が悪いので横になっているというLINEが来て、簡単な鍋にしようと思って鶏団子と野菜を買って帰った。

日記の続き#290

「私は噴霧器ではないので、いくら押されても希望の霧などこれっぽっちも吹き出しはしない」
———— ヘンリー・ミラー「春の三日目か四日目」

もう眠い。今日はなぜか朝4時に目が覚めた。

文房具屋で太い芯が入るシャーペンを見かけて、なんとなく買ってみた。紙をさりさりと擦って書く。いつからか、紙を触ると嫌な音を聞いたときのような不快感を覚えることが増えてきた。このシャーペンはギリギリのラインだ。

こういう現象には音と触感のあいだの共感覚的なものが関わっているのだろうか。ちょっと調べてみたらそういう仮説も検証の余地ありとする聴覚心理学の論文が出てきた。この線で考えるとして、少なくともたとえば黒板を引っ掻く音は「黒板」というものを喚起するから不快だとは言えない——これは嘔吐の音が「嘔吐」を喚起するのとは全く異なる——だろうからには、それは知的な表象に関わっているのではなく黒板の触感とその音とのダイレクトな(そして双方向的な?)換喩関係に関わっているだろう。不快の要因はこの換喩関係に他の感覚(視覚、嗅覚、味覚等)が入り込む余地がないことによるのかもしれない。

だとするとこれは共感覚が引き起こす不快というより、共感覚の強制的で部分的なシャットアウトが引き起こす不快ということになるだろう。たしかにそういう音や触覚は、体を当の感覚が喚起する印象に吸着してしまうような感じがある。ASMRが安眠に使われているのと裏表の現象なのかもしれない。こちらはいつも、音から特定の触覚とともに視覚的な像、場合によっては匂いや味もセットで喚起する。それはそれで苦手なのだけど。(2021年1月26日

日記の続き#289

夜中に目が覚めて、下腹部に尿意を我慢し続けたときのような痛みがあってトイレに行ってもう一度寝るとまた同じ痛みで目が覚めた。これは前立腺なんじゃないかと思って横になったまま「前立腺 痛み」と検索すると前立腺炎というものがあるらしい。病院に行って診察を受けてという想像が、自分の頭のなかでそれを日記にどう書くかという推敲とくっついていることに気がついて、頭がおかしくなっているのかもしれないと思いながらまた寝た。朝起きると痛みは引いていた。