1月29日

 帰ってきてすぐに寝て、起きたらもう朝だ。ロッテのチョコパイがあったので食べて、コーヒーを淹れる。

 昨日。新宿で降りて代々木まで歩く。山内祥太の「第二のテクスチュア(感触)」へ。待ち合わせていた大和田さんが来ないので先に見て喫茶店で時間を潰す。1時間後に展示を見終えた彼と合流した。馬喰町へ移動して今度は永田康祐の「イート」を見る。大和田さんは二度目だったが付き合ってくれた。

 横浜に帰ってきて駅から出て、耳が痛くなってきたのでマスクを取った。そういえば昨日、ということは一昨日、博論公聴会で使うzoomウェビナーを平倉さんと試してみた。見学者役でさとしゅんと関さんにも来てもらったのだけど、なぜか僕のマイクとスピーカーだけ繋がらない。イヤホンを有線にしたりPC内蔵オーディオにしたりしてもダメで、聞こえないし僕の声も向こうに聞こえていない。あれーとか聞こえますかーとか言いながら「zoom オーディオ 繋がらない」とかググっている自分の顔と、見学者と何か喋っているらしい平倉さんの顔が写っている。結局「オーディオに参加」をクリックしていないだけだった。ビデオ参加とオーディオ参加をどっちも選択しないといけないのは変な感じがする。ビデオのアイコンを押したら声も繋がってほしい。

 山内さんの個展は顔、永田さんの個展は食べたり喋ったりする口、こないだ見た大和田さんと大岩さんの個展はどちらも耳を扱っていた。何か顔周りでいろいろ起きているなと思いながら、疲れていたのでまとめるのは起きてからにしようと寝た。起きたけどたいしてまとまらなかった。

1月21日

 昨日の晩、樋口恭介さんが僕の文章は疲れているところがいいと言ってくれた。それで冒頭の文章から疲れている大岩雄典「スローアクター」展の批評を読み返したりした。

 それで思い出したのだけど、年末に大岩さんと布施琳太郎さんのトークの司会をしたときに、ふっと、都会は静かなのになんかあったりするけど、田舎は静かなところにはなんもないという話をした。僕は「都市」という言葉より「都会」という言葉をよく使う。「都市」というのは、静かだけどなんかある「都会」のひとが使う言葉だという感覚がある。

 トークの会場であり、そのとき大岩さんの個展がおこなわれていたTOKASは、水道橋とか本郷三丁目とかの駅の近くの、住宅や小さなビルの多い静かな地区にある。こんな静かなところに現代美術のギャラリーがあるのだなと、会場に向かって歩きながらぼんやり考えていた。

 美術が疲れるのは、物をちゃんと見るという変なこと(それはやはり変なことだ)を繰り返しするからであると同時に、まず会場まで行くのに疲れるということだ。美術が何か疲労の手触りと特殊な関係をもっているとするなら、作品への物理的、技術的、制度的なアプローチにかかる労力にも関わる。「サイトスペシフィック」とかいうことも、その「サイト」にどういうアプローチがくっついているのかということとセットで考えなければならないだろう。

 疲労は、展示に入る前と後、出る前と後を否応なく貫くものであり、それは持続と空間の連続性を指し示している。作品や展示がいかに「自律」していても、私の疲労はそれを閉じるがままにさせない。水道橋の街のよそよそしい静けさにまで腹が立ってくる。見るべき室内の展示と見なくていい街の平凡な景色に、当たり前のように分割を強いているような気がして。

 その点、大和田俊の個展「破裂 OK ひろがり」のポンプ小屋の作品は良かった。何もない、栃木的にまっ平らな、枯れた田んぼの端に、ところどころ透明な板で囲んだ小さな小屋があって、その中に彼の《unearth》が設置されている。石灰岩に点滴袋からクエン酸を垂らし、それで数億年前の微生物の死骸でできた石が溶ける。マイクで拾われたその音が、町内放送に使われるような、電柱の上に取り付けられたスピーカーから流されている。

 狭義の会場である車屋美術館から離れたところに設置されたその作品は、ここからが美術、あとはその外という分割に基づいているのではなく、歩いたら疲れるとか、微生物が死んで石になるとか、集音するためには小屋を閉じなきゃいけないとか、でもその音は小屋の周辺にいる誰かれ構わず聞かされていることとか、石を見ることと音を聴くこと、スピーカーを見ることのあいだにフィジカルなズレがあって行ったり来たりしなきゃいけないこととか、そういうこととつながっている。

 しかし配布された資料にある、大和田オススメの、会場近辺のパキスタン料理店やトルコ料理店が書き込まれた手書きの地図は何だったんだろう。ちょうど地元の五月女さんが車で案内してくれたから行けたけど、ひとりで電車で行ってたら絶対行かなかかっただろう。そういえば《uneath》にもある、よくわからない多動を強いられる感じや、無理があるこの地図は、彼自身の落ち着きのなさを追体験するものでもあるのかもしれない。