3月17日(*消えていたので再録)

 一昨日作った鮭と菜の花のクリームパスタがあまりに美味しくて昨夜も同じものを作った。鮭が一切れ余ってて、買い足すのが生クリームだけで楽だったし。1日目に作るときに菜の花があるのでパスタにしてみようと、家からすぐのまいばすけっとに行くと鮭は塩鮭しかないし、生クリームも料理にも使えるというなんだかわからない「ホイップ」というものがあるだけで困ったが、他の店が開いている時間でもないのでそれらを買って帰った。塩鮭と「ホイップ」で十分美味しかった。むしろ塩を振るより鮭の淡白な感じが出ずよかった。2日目は大きいスーパーで普通の生クリームだけ買い足して、やはりクリームは「ホイップ」より生クリームだなと思った。風味も違うし、「ホイップ」は加熱して麺と合わせると分離のせいか色が飛んで透明になった。

 でも明日も作ろうと思うくらい美味しかったわけだし、あらためてまいばすけっとの帯に短し襷に長し感はなんなんだろうと思う。頭の中で数えてみると徒歩5分圏内に5店舗ある。どんなコンビニもそんなにはない。店の分布と棚の分析で論文が書かれるべきだと思う。でもそういうことは企業の側がすでにものすごい調査をしているんだろう。インフラ化した小売業というとコンビニがまず思い浮かぶしそれはほとんど国民感情になっていると思うけど、コンビニは曲がりなりにも期間限定にしたり同じジャンルの他のものより50円くらい高くしたりで贅沢感を出している——泣ける話だが——のに対して、とりわけ都市部の住宅街でまいばすけっとは、自炊を節約のために「させられている」ものだと感じさせる店としてある気がする。そして当然それは何か都市生活者があらかじめ抱いている切迫感の反映でもある。コンビニで20円高いだけの「プレミアムブレンド」のコーヒーを飲むより、生クリームより100円くらい安いなんだかわからない「ホイップ」を買う方が何かに対して誠実なことなのかもしれないと思う。何に対してなのかはわからないけど。

*手違いによりこの日記に3月18日の日記を上書きしてしまい消えていたので、編集履歴から復元し再録した(3月22日)。

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3月21日

 書きあぐねていた事務書類があって、ある物が「不要」である理由を書かなければならかったのだけど、不要だから不要なのであり、それ以上考えるのが面倒になりほったらかしにしていた。しかし昨晩ふと「用途がない」という言い回しが思い浮かんで、これなら書けるなと思いながら眠り、起きてさっき書いて出した。これで通るのかどうかは別問題だけど、こういう突破は他の文章を書いているときにもよくある。

 これこれの事由により不要である、というのはとても強い言い方だ。いくら理由を連ねても、それと積極的に不要だと言うことのあいだにはジャンプがある。それがあると害をなす、あるいはそれが使えなくなるような破損を被っているわけでもないものについて、これはいらないと言うのは、結局いらないからいらないと言っているのと変わらない。しかしこれこれの事由により用途がなく、したがって不要である、というのは不思議なことにロジカルな感じがする。用途がないと言えば当の物の「パフォーマンス」について言及する必要が一切なくなる。物そのものではなく物を取り囲む状況に問題がシフトされるわけだ。あとは相手のプロトコルないし担当者の性向が「用途がない」と「不要」の短絡を受け入れるかどうかに関わっている。いずれにせよ文章というものは、「不要」の手前に「用途がない」を置くだけで視野がぱっと開けるような微妙な手続きの連続で成り立っている。

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3月20日

 雨。昨夜横浜に帰ってきた。そういえば京都に出る前に彼女に天気がいいから富士山が見えるねと言われたのに、行きも帰りも新幹線に乗ったのは夜だった。昨日は昼から梅田に行ってお互い博論を出し終えた米田さんと会ってお茶をした。会うのは2年ぶりくらいで、お互いや周りの友達の近況を聞き合ったり、これからどうするかという話をしたり、昔は——といっても5年くらいしか経ってないけど——よかったねという話をしたりした。確かに一緒によく遊んでいた頃は読書会をして、思弁的実在論というスケールの大きい潮流が紹介されていて、首塚にみんなで泊まり込みで作った『アーギュメンツ#2』で批評や美術の人と初めて関わっていた。今25歳くらいの人が何との距離で何をしてどう遊んでいるのか想像できない。

 米田さんと別れて久々の梅田だからぶらぶらしようと思って中崎町の古着屋に行った。もっとクラシカルだった頃のA.P.C.の暗い灰色のステンカラーコートと、Julien Davidの作りは変だけど形がきれいな白いデニムパンツと、マルジェラのレモン色の革のショルダーバッグを買った。思わぬ散財だったけど正規価格の5分の1くらい、東京の古着屋の半額くらいだと思う。5年くらい前にこの店で買ったものをまだしょっちゅう着ているしと自分を安心させた。

 京都に戻ってくろそーと藤村さんと合流し「ひるにおきるさる」メンバーでご飯を食べた。3月13日が藤村さんの誕生日で、その日の日記を読むのを楽しみにしていて、めちゃめちゃユルい日記で嬉しかったと言われそんな楽しみ方があるのかとびっくりした。終電なのでまたゆっくり話しましょうと言ってタクシーで京都駅に行って帰ってきた。初めてモバイルSuicaに別アプリから予約した新幹線のチケットを登録したのだけど、ものすごく便利だった。

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3月19日

 日記を始めて2ヶ月経った。こないだ1年続けるつもりと書いてしまって、ミスったなと思っている。毎晩朝起きたら何を書くかと考えながら寝るのは楽しくもあるが何も思い浮かばないことへの怯えと裏表だ。昨日の日記を読み返すと文が荒れている。難しい問題で、その日あったことを書きたくなるようなイベントフルな日の日記はたいていあまり出来がよくない。あらゆる日記が、日記を書く暇がないほどイベントフルな状態と、イベントフルな日をでっち上げるために一日中日記を書いている(あるいは書くためのイベント作りに費やされる)状態とのあいだで書かれているとするなら、イベントレスネスこそが日記の具体的な実現可能性を支えていることになる。

 河原町から阪急で梅田に向かう電車のなかで書いている。阪急は大阪にいたとき学校に行くのにもバイトに行くのにも京都に遊びに行くのにも使っていた。とくに梅田のホームが好きだ。あれだけターミナルらしいターミナルは日本にはあんまりないんじゃないか。改札を入ると広いホームに神戸線、宝塚線、京都線のそれぞれ3本ずつくらいの線路がずらっと横に並んでいる。入ってきた車両が客を入れ替えて折り返していく。高槻駅。梅田まであと20分くらいか。

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3月18日

 久々の遠出で浮き足立ってしまったのか、京都に行くはずが千葉正也個展を見に行き、始終ぼおっとして電車を何度も乗り間違えたり乗り過ごしたりしながらオペラシティに着いた。喫煙所をぐるぐる探すが見当たらない。こんなところは早く離れよう。非喫煙者がふだんしょうがないものとして蓄積している環境のストレスを先取りすることでかわすことができるのが喫煙者のよいところだ、などと考えるがともかく煙草が吸いたい。そのためだけにエクセルシオールカフェに入ると人数制限のかかった喫煙ブースの前に人が並んでいる。1本だけ吸って展示を見た。1周目はゆっくり、2週目は速く。オペラシティを出てすぐの道路で高速道路が上下に重なっているのを眺めながら煙草を吸った。また2回電車を間違えながら京都の首塚に着いた。新幹線の喫煙ブースも一度にひとりしか入れなかった。「ブース」なんかにしたのが間違いだ。

 「首塚」はくろそーと今村さんの家で、大阪にいたときから何度も遊びに来ている。チャイムを押すと居候中のくろそーの弟さんが迎えてくれて、彼が見ているまちゃぼーとナリ君という人が対戦しているストリートファイターの配信を見ながら解説してもらっていた。友達の兄弟と二人きりなんて変な感じだ。しばらくするとたかくらさんが友達のアーティストを連れてきて、大前さんも遊びに来て、家主がいない家によく知らない人どうしが集まるというわけがわからないことになっていた。今村さんが仕事から帰ってきて、みんなでyoutubeを見ながら喋っていた。もう5年くらいこういうことが続いていて、あらためて本当にすごいことだなと思う。

 遊びに来た人らが帰り、住人が寝たあとでお風呂を借りて髪を乾かし終わると「よお」と聞こえ、振り返るとくろそーが窓から声をかけていた。鍵を持って出るのを忘れていて入れないらしい。久しぶりですねと言いながらドアを開けて迎え入れる。

 

 

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3月16日

 昨日の続き。「ここ」や「昨日」がシフターであり、かつ、指示対象がその発話の(めちゃめちゃ広い意味での)物理的な条件に規定されているという意味で指標的であるということを認めたとしよう。しかし「私」はどうだろうか。たしかに「私」にとっての「あなた」や「彼・彼女」が誰を指すのかということはそのつど変わる。しかし「私」はずっと「私」と言い続けなければならず、この「私」の固定をスキップすることによってしかシフター=指標説は成り立たないんじゃないか。つまりシフター=指標説を唱えるとき、誰もが「私」を背負わされているという事情に対する批判的視座がブロックされる、というより、すでにそれを解決済みの問題として打ち遣ることになるだろう。

 「私」もシフターだというのは、当人が「私」と言う必要が一切ない地点からでないと言えないことだ。そしてその地点はたんに知的な媒体に「理論的」な書き方で書けば到達できるようなものではない。アルチュセールは「おい、そこのお前!」という警官の叫び——今やこういうことをやるのは広告ばかりだが——が「私のことか?」と後ろ暗さを擦り込みつつひとを主体化させる作用を権力の呼びかけと言ったけど、「私」という語には、ひとを言葉の「主体=主語」のなかに拘束する働きがある。そしてその作用を、物理的因果作用の痕跡だなんて言うことはやっぱり言葉の社会的・政治的側面を甘く見過ぎなんじゃないかと思う。

 そして「私」への拘束から抜け出すということは、小説、詩歌、哲学、批評などあらゆる言語実践の最大の賭け金であり、それは「私」はシフターだとメタで非人称的な地点から言うことによってではなく、「私」をシフトさせる言葉を連ねることによって初めて到達できることだろう。しかしこれを美術の問題に折り返すとどういうことが言えるんだろうか。

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3月15日

 「指標(index)」はパースが考えた記号の分類のひとつで、物理的因果関係によって成立する記号を指す。煙は火の指標、足跡は歩行の指標で、細いガラス管の中の灯油の膨張・収縮は気温の指標になる。戦後の芸術学の分野では感光剤の化学的変化によって光を記録する写真の指標性がよく論じられて、じゃあデジタル写真も指標なのか、スクリーンショットは写真なのかとかいろいろ議論がある。ともあれ写真=指標で、それを20世紀の芸術を串刺しにする視座として考えようとした文章がロザリンド・クラウスの『アヴァンギャルドのオリジナリティ』に収録された「指標論 パート1・2」だ。

 しかしクラウスはここで指標に「写真的なもの」を代表させるという操作を議論全体の前提として置くだけで、写真自体はほとんど論じられず、あらかじめ概念化された写真的なものがデュシャンの作品や論文と同時代の70年代の作品にどのように見出されるかということを書いている。

 気になるのは彼女が指標という概念とシフターという概念をくっつけていることだ。シフターはローマン・ヤコブソンが考えた言語学の用語で、発話の状況によって指示対象が変化する言葉を指す。「ここ」とか「昨日」とか「私」とか、確かに誰がいつどこで発するかによって何を指示するかが変化する。しかしシフターは指標だろうか。シフターも指標だと言うことによって物理的因果作用を言葉の網の目の方に吸着してしまうことこそが目指されているように見えるし、むしろ指標のほうがシフターの変種だと考えているんじゃないかとすら思える。指標とシフターの関係が整合的なものなのか、あるいはそこに何らかの「無理」があるとして、それをたんに取り除けるのではなくその意味を探るためには、この論文ではなぜしきりに「キャプション」が取り上げられ、作品の「インスタレーション」としてのあり方が語られるのかということを考える必要があるだろう。

 そもそも狭義のシフターでなくても言葉の意味は状況に応じて変化するし、そこには社会的権力関係が刻まれている(言われていないことを言われたことにする忖度とか)。そうだとすれば一方で「物理的現前」や「実在的現前」という概念を元手にイメージの選択の必然性を担保し、他方で固定的な対象をもたないシフターの「空虚さ」を特権的なものとすることは、言語そのものの社会的・政治的側面を無視する方便になりはしないか。

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3月14日

 外に出て煙草を吸って携帯灰皿を開けると見知らぬフィルターが2, 3本入っていてなぜかどきっとしたがすぐ五月女さんのものだと思い出した。このあいだ髪を切ったあと彼と友人ふたりと中目黒のジビエのお店に行った。おとなしいメンバーだし誰も酒を飲まないので静かな会だった。葡萄ジュースにハーブやスパイス、種類によっては昆布やたまり醤油まで入っている凝ったノンアルコール飲料を飲んだ。美味しいけどこれでボトル5000円くらい出してるんだろうかと思うと、上品な酒飲みの価格感覚をインストールできていない下戸には厳しいなと思う。まあこういうときに料理も含めこういう贅沢ができて楽しかった。ひとしきり鴨、鹿、猪のグリルを食べて店の人に煙草外で吸っていいですかと聞くと申し訳なさそうに出てすぐの高架下のところまで行ってくれと言っていた。店先で吸ったらクレームが来たりするんだろうか。こんなに誰もいないのにと思いながら吸っていると誰かに名前を呼ばれ、名前が呼ばれているなと思いながらぼおっとしていると五月女さんだった。店に戻るときにこれ使ってくださいと灰皿を差し出した。

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3月13日

 こういう偶然は案外あんまり重なるものではないが、数ヶ月前の季節外れに暖かい日に近所の小学校の前を通りがかると、敷地を区切る高い柵の縞模様の影が歩道に投げかけられていた。そこを歩くと、縞を横切るのに合わせて速いリズムのストロボみたいに陽光が目を撃つ。試しに目をつむって歩いてみると柔らかくて温かいものでまぶたをとんとんと叩いているようでとても気持ちよく、早く止めないと今にも蹴躓くぞ、そしてこれは気持ちよすぎるぞと思って止めた。80年代にはシンクロエナジャイザーという、目に光を当ててトリップするゴーグルがあったらしい。調べたら今でも売っているが、家で暗い部屋に寝転がって熱のない光を浴びるより絶対に季節外れに温かい日を散歩しながら陽光のストロボを当てた方が気持ちいい。

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3月12日

 眠りに落ちる前の半分夢を見ているような状態で何かいいアイデアが浮かぶことは誰しもよくあることだと思う。そのほとんどを起きたときには忘れていて、覚えていても十中八九なんじゃこりゃとなるだけなのも含めて。日記はとりあえず1年間続けることを考えている。その日あったことを羅列するタイプのものではないので——じゃあどういうタイプなのかというと、まだよくわからないのだけど——それ以上このやり方で続けるのは無理があるし、別のものを始めるとしたら写真とか俳句・短歌とかそういうぱっと出せるものにしようかなと思っていたのだけど、昨夜眠りに落ちる前に思いついたのは全く別のことだった。

 1年続けると365日分の日記が溜まる。来年の1月20日から2年目が始まる。思いついたのは2年目(以降)の日記のふた通りの書き方だ。ひとつめは、来年の1月20日の日記は今年の1月20日の日記を書き換えたものにし、以降も1年前のその日の日記を書き換えることを繰り返し、1年分の日記の別バージョンを作ること。この場合問題になるのは、書き換えの方針や規則をどのように設定するかということだ。書き換えているその日の何かを書き換えられるものに混ぜ込むというのがまず思いつく。

 ふたつめは、来年の1月20日には今年の1月20日の日記の続き、つまり虚構の2021年1月21日の日記を書き、以降も同様のことを繰り返すというやり方。これを1年続けると365日それぞれの「次の日」が出来上がり、さらにその次の年の1月20日には「2021年1月22日」の日記を書くことになるので、1年ごとに1日ずつ書かれる日と書く日の日付がずれ込んでいくことになる。これを365年続ければ、2021年1月20日から2022年1月19日までのそれぞれの日を出発点とする365通りの、365日分の日記が出来上がる。問題はひとは365年生きないということ、そしてそんなものが出来上がって何が嬉しいのかということだ。

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