4月22日

 また——……!——珈琲館。今日はカウンターのひとり席しか空いていない。本を読みながらノートを取る。書いてあることやそれについてのコメントより、読んでいて頭をよぎったことを書く。読んでいるものと関係がなくてもあまり気にしない。読み返して書いていたときの思考をトレースバックできるかも気にしない。読んで書き留めるという回路に「考える」をなるべく差し挟まない方が結果的に考えが捗る。いくつか博論改稿のアイデアも思いついた。前に書いたパラグラフ・パッドと同じで定期的に手を動かすので集中も長く続く。

 机から頭を上げて本に向きなおったとき、何か変な感じがした。男ふたりの声がうしろから聞こえる。うしろにいるのでうしろから聞こえるのは当たり前なのだけど、頭を上げて初めてそれに気づいて、同時にさっきまでその声を前にある厨房の話し声だと無意識に思っていたことに気づいた。確かに頭を下げると聞こえ方が少し変わる。気が散ってどの席にどういう人がいるか気にしていたら姿勢と聞こえの関係の変化には気づかなかっただろう。何かに没頭することでかえって他のものへの感覚が敏感になるということがあるのかもしれない。没頭と知覚の鋭敏化に共通するのは自分の体から意識が脱中心化することだ。それに対して気が散っているときは、たいてい髪の毛や手元にある何かをいじったり脚を組み替えたりしてきょろきょろ周りを見て、意識が体の置きどころに向かっている。知覚がばらばらとあってその齟齬のなかに体が見出されるか、体から出発して知覚を整序するか。この違いは『眼がスクリーンになるとき』で書いた「眼−スクリーン的な知覚」と「眼−カメラ的な知覚」の違いに対応する。

 「ぼおっとする」ことと「気が散る」ことはぜんぜん違うのかもしれない。ぼおっとするときは意識が何か体の外のものにへばりついていて、気が散るときは体の収まりの悪さ——あるいは自分が他人にどう思われるか——にばかり意識がむかう。そしてぼおっとしながら作業をする環境を作ると考えが捗る。「集中」というのは、気が散ることなくぼおっとすることなのかもしれない。

 

 

投稿日:
カテゴリー: 日記